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和尚さんの法話 「女人往生伝」

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「藤原氏の娘は、心は柔和にして慈悲心が極めて深い女
性であった。常に極楽浄土を慕い、念仏の声を絶やした
ことがなかった。晩年に及んで、音楽が遠い所から聞こ
えてきた。これは往生の瑞祥(ずいしょう)だろうかと
思った」

この本人が、遠いところの音楽を聞いたわけですが、極
楽へ往生するときは天人が大勢で音楽を奏でてくれるわ
けです。
その音楽の声がずうっと遠いところから聞こえてきたと
いうのですね。
そして近頃は、寝ている部屋の屋根の上で聞こえるよう
になってきたと。

「すぐ上に聞こえてきた。今こそ極楽往生の刻限であろ
うと人に語った」
この部屋の上から聞こえてきます。もう私は極楽へ往生
するんでしょうと傍の人に語った。
「彼女は、その言葉が終わるとともに世を去った。
その時、彼女は何の苦痛も訴えず往生を遂げた」
 彼女は、心は柔和にして慈悲は甚だ深くという往生の
ための人間的条件と、念仏という宗教的条件を兼ね備え
ることによって、臨終往生を遂げたというのであろうと。
 だから極楽のことから話をしないといけないのですが、
極楽へ往生すると、そうするともう三界を解脱する。
仏教はまずは三界解脱ですから。
兎に角我々は極楽へ往生出来なかったから三界の何処か
へ、欲界、色界、無色界の何処かへ行くわけです。
欲界というのは三界の一番下ですが、ほとんどが欲界の
下が地獄ですが、その上に餓鬼がありその上に畜生、修
羅その上に人間界がありその上に天上界があるとこうな
ってるんですね。
信仰が無いけど良いことをして悪いことはほとんどしな
い。
あんな善い人はいないという人は、欲界の天上界へは行
けると思うのです。
だから皇室の人は仏教の信仰を持っていないですね。
然しながら立派な人に生まれてる。
色界以上は、仏教の信仰、仏教の道理をちゃんと心得て
いないと色界、無色界へは行けない。

地蔵本願経というお経の中の一説ですが、
「無上菩提を修せんと欲する者、乃至三界の苦を出離せ
んとならば此の人既に大悲心を発して先ずまさに大士の
像を膽禮(せんらい)すべし。一切の諸願速かに成就し
て永く業遮止すること無からん」

無上菩提というのは、此の上の無い悟りですね。
此の上が無いという悟りですから如来様の悟りのことを
いうのです。
悟りには段階があるわけですね。
聖聞の位、縁額の位、菩薩の位と段階があるわけです。
無上菩提を修する者ということは、自分も必ず如来に成
りましょう、成仏致しましょうと、お釈迦様や阿弥陀様
のように自分も如来に成りましょうといううふうに自分
の心に決めることですね。
そういう誓願をたてるわけですね。
三界の苦を出離せんということは、三界を解脱する。
三界を出ようということは阿羅漢ということですね。
究極的には如来に成るのですが、兎に角阿羅漢に成る。
輪廻というのは仏教では迷いということです。こうして
生まれ変わってくるという事は善いことではないわけで
す。
生まれ変わるということは、人間界ばっかりじゃなくて
あの世にもありますから三界は行ったり来たりしている
わけで、その間は解脱していない、迷うているという言
葉で現わすのですが、そういうことじゃなくて兎に角究
極的には仏に成る。
まずは三界を脱して阿羅漢に成るという人ならば、まず
は大悲心を発して、というのは阿弥陀様でもお釈迦様で
も衆生済度ばっかりしているわけですよね、遊んでいる
わけじゃない。
その大悲心を発してまずは大士、大士というのはお地蔵
様のことをいうわけです。
これは地蔵経の中のお釈迦様の言葉ですから、地蔵と書
いてもいいんです。
大士の像とは仏像ですね。
お地蔵様の仏像を膽禮(せんらい)すべしとは、敬って
礼拝する。そうするとその功徳によって一切の諸の願を
速やかに成就して永く業遮止(しゃし)遮止というのは
業によって止められてしまうんですね。
上へ上へあがって生死解脱しようとしているけども折角
いい所へ行っても業が起ってきて邪魔されて転落してく
るんですね。
それが遮止されるというんですね、上がることを止めら
れる。
そういうことをお地蔵様が無くしてくれるというのです。
お地蔵様を敬ったらお地蔵様がそうして下さるというこ
とです。
お地蔵様を信仰したら、我々の修行を大いに助けてくれ
るということです。
兎に角、観音様でもお地蔵様でもお不動様でも、ああい
う方々は一体あの世で何をしてるのかというと、私たち
を救うことばっかり苦心してらっしゃるのです。
どんなにしたら人は救われるだろうと。
どんなにしたら一人でも仏道の方へ心を傾けてくれるだ
ろうかということばっかり考えてるんですね。衆生済度
ばっかりですね。
だからそういうことを思えば勿体ないという気持ちを起
こさざるを得ないと思うのです。
舎利弗、目連という二人の偉い方がいますが、お釈迦様
の最高の弟子で阿羅漢ですね。
この舎利弗と目連というのは、お釈迦様のお弟子になる
まではいっぱしの自分の教団を持ってて弟子も大勢持っ
ていたんですね。
舎利弗は舎利弗。目連は目連でね。
二人ともそれぞれに教団の教祖さんだったわけです。
そして或る日のことに、舎利弗の弟子と目連の弟子が道
で出会って、皆宗教を求めてますから、君はどういう宗
教で師匠さんはどういう人なんだと。
舎利弗さんというんだと。私は目連というと。
君の師匠さんはどんなことを説く。
私の師匠さんはこう説くんだと。
二人は道を求めていく者は皆そうだと思いますね。
そして別れて、舎利弗さんの弟子は舎利弗さんの教団へ
帰っていって、今日は道でこんな人と遇いましたと。
その人のお師匠さんは目連さんというらしいと。それで
どういうことを説いてるのかと聞いたら、私のお師匠さ
んはこうこうこういう教えを説いたと言いましたと。
そして目連の弟子も同じようなことを、今日はこんな人
に遇ってそのお師匠さんはこういうことを説いたと、お
互いに自分のお師匠さんに報告するわけです。
そうしましたら目連だったと思いますが、弟子から報告
を聞いて、それは自分の思うてることとほとんど変わり
ない。ほとんど同じことを言っていると。
只、向こうのほうが手際よく説いてあるというのです。
これは一遍そのお師匠さんに会いたいということで、初
めて弟子を介して舎利弗と目連が出逢うんです。
そして語り合って、意気投合してね。するとほとんど変
わらないんですね。
これは実際は、今いう舎利弗のほうが一日の長があるん
ですね、目連よりは。
同じように阿羅漢には成るんですが、前世の修行が舎利
弗のほうがやや一日の長といいますように、ほとんど変
わらないんだけれども、舎利弗のほうがやや優れてたよ
うですね。

和尚さんがお経を読んでいたらそういうところがちょく
ちょく出てくるとおっしゃっていました。
然しながら二人は、まだまだまだ上があると、我々のこ
れが終りじゃないもっと上の真理があるはずだと。
だからその真理を説く人があったら、君がそういう人に
遇ったら私に紹介してほしいと。
私がそういう人に遇ったら君に紹介しようと。