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アインシュタイン・ハイツ 103号室

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「いやー、今なら思うよ。アイス、アイスに俺、夢見過ぎだったってさ。初対面にしては重すぎた。んでさ、今はこう思うよ。俺の勘は大正解だった!って。」
アインシュタインは本当に賢い。彼女の傍、このハイツで暮らすようになって年月も過ぎたが、初めて出会った時に感じた彼女の聡明さが揺らぐ事はない。
彼女は全部分かってる。伊織のその確信が揺れる事もない。
「でさ、このハイツに入れてもらおう、って決めてミドリさんに会った訳だけど、緊張してたなあ。」
このハイツに住みたい、という決意だけは決まっていたが、伊織の最大の難関が、管理人との契約だった。
このような小さなハイツの場合、管理人の審査に合格しなければ、ここに住む事はきっと不可能だ。
審査の基準。人柄。収入。素行。どれにしろ、まるで自信のないものだった。
「入りたいって気持ちは誰にも負けなかったけどさ。その頃の俺、本当キてたし。」
憶えてる?あの頃の俺。そう尋ねると、彼女はチラリと伊織の方に首を持ち上げた。
当然、憶えてるわよ、と言いたげに、アインシュタインはひげをそよがせる。管理人のミドリさんと伊織が向かい合っていたその時、アインシュタインはまるで二人の仲を取り持つように、ちょこんと部屋に座っていた。
「でも、ミドリさんにも俺、驚いたなあ。」
黒髪黒目で日本語使用。それでもって「ミドリさん」なんて呼ばれている、というものだからてっきり日本人だとばかり思い込んでいたら、イギリス人なのだといわれて仰天した。
彼も伊織と良い勝負をするくらいに無口で、契約の時には全く会話が弾まず、ああこりゃ駄目だ、と思っていたら、あっさりと契約書を差し出されてもう一度驚いた。
「俺驚きすぎてさあ、本当に良いんですか!?って訊いちゃったし。」
契約書を握り締めて身を乗り出す伊織を、アインシュタインは片目を瞑って見ていた。ミドリさんは、伊織の剣幕にびっくりしていた。
今思えば、あの一瞬が、今の伊織への第一歩だった。
身を乗り出す伊織に、ミドリさんが静かに頷く。サインをして、判子を押して、確かにこのハイツの住人になれた瞬間から、伊織の世界はちょっとずつ姿を変えた。
それから、伊織自身も、ちょっとずつ変わった。
今ではバイト先のおばさんに「いつも元気ねえ」と言われるくらいには。閉じ篭もりたがる自分を誤魔化す術を手に入れた。
「まーいーやっ、ってのが本音かな。分かってもらえるヒトに分かってもらえれば、俺はそれで良い。」
言葉を使っても伝わらない事もあれば、言葉なんてなくても伝わる事だってある。
だったら無理しなくても、いい。そう思ったら、途端に気が軽くなった。
教えてくれたのは、彼女。
「まあ、言いたいだけ語ったけどさ、つまりは……、アイス、サンキュ。」
アインシュタインとの出会いが、伊織を変えた。アインシュタインと、このハイツとの生活が、伊織を変えている。
「にゃう」
アインシュタインが立ち上がった。ぐう、と細い身体を伸ばす。見れば煮干はすっかり無くなっていた。
時計を見ていないから、どれだけアインシュタインを相手に話し込んでいたのか定かではない。だが、かなりの時間がたっているだろう事は、確かだった。
「アイス、付き合ってくれてありがとね。」
伊織も残った缶の中身を飲み干す。アルコールは炭酸もほとんど抜けて、すっかりぬるくなっていた。
先に立ってハイツの中へ戻っていくアインシュタインの後を追って自分の部屋へ向かいながら、伊織はすらりとした彼女の背中に声を掛けた。彼女の向かう先は真直ぐ、ミドリさんの部屋だ。
「アイス。また二人でさ、月見酒やろうよ。」
今度はもうちょっと暖かくなってから。もっと面白い話を用意しておくからさ。

彼女の返事は、尻尾が一振りだけだった。


このハイツは楽しい。
周りの環境も面白いし、住んでる人間も興味深い。
更に美人で賢い猫が偶にこうして話し相手になってくれる。
だから伊織は、このハイツが気に入っている。