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風そよ吹く心に

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トキコは、田舎道を歩いていた。
肩にショルダーバッグを掛け、手には、やや大きめのボストンバッグを載せたオレンジ色のトランクを引き摺っていた。
秋の空に 白い雲が浮かんでいる。風に黄色く赤く色づいた葉が吹かれ飛んできたが、山全体が、紅葉に染まるにはまだ早いようだ。

数時間前、トキコは、夫と別れてきた。3年と3ヶ月という婚姻を破棄したのだった。
理由は、特にはなかった。夫の浮気などトキコは気にはならなかった。
夫婦としての日常生活も何ら問題なく、性生活も煩わしくなくありきたりにあった。
理由をこじつければ、この期間に子どもができなかったことくらいのものだ。

こんな日でも、勤めに出る夫を見送り、ひとり役所に届出をした。その後、元夫となった男にメールで報告を送信した。すぐさま返信で届いた『了解』の文字を読み終えると、その携帯電話を解約し、新規で加入手続きをした。もう誰もかけてくることはないにしても、連絡先となる窓口は必要であった。

トキコは、夫と パート社員で入った会社で知り合った。5歳年上で、仕事もできるし、友人にも信頼があり、女性にももてた彼が好きだった。そんな彼からのプロポーズに夢心地のまま結婚をした。こと女性に関しては、結婚をしたのだから浮気・不倫となるのだが、妻であることが幸せだったし、充分に優しい夫に不満を感じてはいなかった。

だが、トキコとの生活を重く感じはじめていたのは、夫のほうだった。
結婚を決め、寿退社したトキコは、家庭に入った。日常的な家事は、そつなくしてくれるし、食事も不味くはない。日に日に美味しくなって「結婚後、三キロ太ったよ」と友人に楽しげに話していたこともあった。夜の誘いにも快く応じてくれた。それに 残業も 休日の仕事も 酒の付き合いも 馴染みの女性とのデートにも トキコの干渉がないのは 楽だった。しかし、抵抗がないことに どこか物足りなさを感じてしまうのだろうか。嫌いではないのに トキコを苛めてみたくなる日もあった。

初夏の風がレースのカーテンを揺らす土曜日のことだった。
「いい天気ね。すぐに夏になりそう」
トキコが、部屋の窓から空を見上げ 大きく深呼吸とも溜め息とも思える息を漏らした。
「なんだ、退屈なのか?」
「ううん、べつに」
「ちょっと出かけてきていいか?」
「うん、構わないけど。お仕事?」
「ああ」
トキコが、朝食の支度をしているときも、洗濯物を干しているときも、夫は、ときどき携帯電話を取り出し、読んだり入力したりしていた。時間が経つごとに、その様子もそわそわと腰は落ち着いてはない。そんな気配を感じながらも、トキコは何も言わなかった。
出かけの支度を終えた夫が、玄関でトキコに声を掛けた。
「じゃあな」
「いってらっしゃい」
振り返ると、子どもをあやすかのようにトキコの頭に掌を置いて二度ぽんぽんと弾ませた。
玄関の扉が閉まる。そんなことは、珍しくはなかった。
その夜、夫は帰宅しなかった。

夫が帰宅したのは、翌日、日曜日の午後だった。
無言の夫に トキコは「おかえりなさい」と微笑んだ。
ソファーにどかっと腰を下ろした夫は、トキコが前を横切った時に声をかけた。
「何も聞かないのか?」
「おつかれさま」
「おつかれさまか……確かに疲れたよ。何度もしたからな」
「そ」
「関心ない? 興味とか、疑うとか、妬きもちとか」
トキコは、微笑んだ唇を窄め、視線を落とし、首を横に振った。
「じゃあ、何で聞かない?」
トキコは、夫の前で言葉を何度も出しかけては、声にならなかった。トキコの肩だけが気持ちの呼吸を見せていた。
「もういいよ」
夫は、ソファーから立ち上がると、寝室とは別の部屋に入っていった。
作品名:風そよ吹く心に 作家名:甜茶