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203号室 尾路山誠二『アインシュタイン・ハイツ』

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約束:(4)



 お母さんが胃ガンにかかり死んでしまったのが、店をたたむ三年前のことだ。
 五十六歳という若くもないし、死ぬには早すぎるのかといえば、どうだろうと首をかしげてしまう歳で亡くなった。しかし私にとってどれほどの喪失感をもたらしたか。
 お母さんは亡くなるその瞬間まで笑顔を絶やさなかった。一度もその苦しさを私に打ち明けたことがないほどに強い女性だった。訊いてみたところ、姉さんたちにも弱みを見せなかったという。
 二度目の家族の喪失に、私の心は激しく泣き叫んだ。しかしそれでもすぐに立ち直ることができたのは、姉さんたちがいて、少女との約束があったからだ。それにお店を私が引き継ぐことになり、突然に降りかかった経営者という肩書きの重みに悲しむ余裕を削られた。
 お母さんのためにも、姉さんたちのためにも、そして少女との約束を守るためにも、お店を失くしてはならない。
 しかしその決意はたった三年で打ち砕かれることになる。どんなに努力しようが不況には敵わない。どんなに営業努力をしようがお金がないから客はやってこない。当然、お店は永遠の閉店に追い込まれた。
 三人の姉さんたちは、最後まで私を責めることはせず、お母さんのように笑顔絶やすことがなかった。
 私はこれからどうすればいいのだろう。悩んで、姉さんたちはどうするのだろうかと尋ねてみると、
「みんなバラバラになっちゃうね。アタシもアイツらも新しい就職先を探すよ。アンタもつらいだろうけど頑張りなよ」
 三人の姉たちは自分が決めた別々の道を力強く歩いていった。きっと私はその後姿に今までの勤労に感謝し、家族として応援するべきだったのだろうと思う。実際に私は、「お互いに頑張りましょう」と言った記憶がかすかにある。しかし本心では彼女たちを引き止めたくて仕方がなかった。行かないで、一人にしないで。何で行ってしまうの? 私たち、家族でしょう? 奥歯を噛みしめて言葉を殺した。
 絶望に暮れるなか、再び立ち上がることができたのは少女との約束があったからだ。少女との約束は、家族との絆のように思えた。たった一本の細い糸。透けるかのようなその糸は、本当にそこにあるのか、本当に少女と繋がっているのか定かではない。しかし私はそのあるのかないのかよくわからないものにすがるしかなかった。
 結局のところ、少女との約束を守ろうという思いは、施設を再興した女性のような純粋なものではないのだ。
 ただ、私は家族に飢えているのだ。少女の思いを踏みにじらないようにといった、そういった純粋な思いから再興を考えたのではないと思う。私は心を満たしてくれるだろう少女の帰りを待っているだけなのじゃないだろうか。きっと私は少女に依存したいだけなのだ。心を満たしてくれる家族を欲しているだけなのだ。
 夫と作る家庭ではないけない。私が求めているのは、私を暖かく包んでくれる人たちだ。もしかしたら、幼い頃に家族を亡くした記憶がどこかに残っていて、それが私の心に影響を及ぼしているのかもしれない。
 しかし、子供のときに交わした約束を十年以上の歳月を超えて守る人はいるのだろうか。それに約束の内容が、スナックで働きたいなどという冗談にもなりえないものだ。少女を連れて行ったという親戚の人がまともに少女を育てていれば、少女はもっと輝かしい職に触れることになるだろう。例えばケーキ屋、フライトアテンダント、教師、看護士、他にいろいろある。その中からホステスを選ぶ人間は多くはない。
 私はいい加減、何処へ伸びているかわからない絆という糸をそっと手放すべきなのではないだろうかとずっと前から考えていた。
 そして、仕事で訪れたあの施設の再興を果たした女性に会い、彼女の努力と純粋な思いを覗き見たことで、私の矮小さを見つめることができ、ついに今日、私は【ルーフ】があったあの喫茶店の前に行くことを最後にしようと決心したのだ。


 空は今日も曇天で、相変わらずのモノトーン調の空間に私はワンピースドレスが発する赤色を投じていた。
 少女と出会ったその時もこのワンピースドレスを着ていた。何となく、約束が果たされる日はこのドレスがいいのではないだろうかと考えていた。案外、私はロマンチストなのかもしれない。
 バッグから腕時計を取り出して見てみると、夕方の五時に差しかかろうとしているところだった。
 もう、帰らなくてはいけない。
 夜は知り合いが経営しているバーの助っ人を依頼されていて、もうそろそろ出発しないと間に合わない。しかし私の足は、そこに例のあるかどうかも分からない絆が巻かれているとでもいうのか、なかなか一歩を踏み出せない。踏み出せば、切れてしまう。
 みかという少女に年齢を訊かなかったので知らないが、おそらく二十歳を超えて数年が経っているはずだ。今更、今日になって来るだなんて、都合のいいことが起こる世の中ではない。
 諦めろ。彼女は来ない。彼女は新たな家庭で育ち、新たな家族を手に入れ、幸せに暮らしているのだ。それはとてもいいことではないか。お前の家族が、妹が幸せに暮らしているのだ。喜べ。喜べ、このみ。だから、一歩を踏み出しなさい。自分にそう言い聞かせた。
 ようやっと足が一歩を踏み出した時だった。
 目の前の喫茶店から一人の男が出てきた。何処かへ行くのだろうと思っていたのだが、真っ直ぐに私の近くに寄ってくると、鼻息を荒立てて口を開いた。
「いくら?」
「…………?」
 帽子を深く被って顔が見えないようにして辺りに視線を投げて何かに警戒しているようだった。かすかに見える頬は赤みが見えていた。興奮している様子だった。
「なぁ、いくら?」
 再び同じこと訊いてくる。今度の台詞には苛立ちが見え隠れしていた。
「あの、何のことかしら」
「はぁ? しらばっくれんなよ! あんたいつもここにいるよなぁ。エロい服着て、客引きやってんだろ? 噂になってんだぜ。この喫茶店の前に女がいて、喫茶店から出てきた男を食ってるていうやつ」
「………………」
 どうやら私を娼婦か何かと間違えているらしい。男の言葉が本当ならとても不愉快な話だ。しかしそれも私に関係なくなる。今日これで私はここには二度と立ち寄らないだろうから。
「何、黙りこくっちゃってるわけ? いくらだって訊いてんだよ? 何、もしかして俺じゃダメなわけ? やっぱなにそういうこと? 結局顔選んで食ってるってわけ? こっち金出すっつってんだぜ?」
 男は勝手に興奮を吊り上げる。ただの勘違いならいざ知らず、こういった手合いの男はたちが悪い。早々に立ち去るべきだと思って、歩き始めたのだが、
「オイ、待てよ!!」
「っ! いたっ!」
 男は私の腕を吊り上げると、無理やり抱き寄せるように引っ張ってきた。
「やめて! 放してっ!」
「だいじょぶだって!」
 何が大丈夫なものか。
 何とか手を振り払おうとするが、男の体に見合わない力強さに敵わず路地裏に引きずり込まれる。
 どうしてこうなった? なぜこうなった? 疑問が取り止めもなく沸き起こる。しかしそれのどれ一つにも答えることができなかった。