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8/9のバッドタイムズ

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「彼は奥さんと離婚して、その日は家政婦もいないから、本当に家の中が空っぽになる。不用心だから家にいてくれって」
 決して大きくはない胸を深い吐息で上下させ、目を伏せる。
「でも、断ろうかと思ってる」
「どうして。もったいない」
 リンの瞬きを自らへの責めと感じているらしい。俯き加減の長く太い睫が神経質に戦慄いた。
「その家には、猫がいる。餌をやって欲しいって言われた」
 最後のあたりはささやくような声色で、小さく流れるクラシック音楽のアレンジに紛れ今にもかき消えそうだった。
「私、猫アレルギーなの」
「そんな馬鹿な理由で断るなんて、『シカゴ』を蹴ったジョン・トラボルタ並の愚行だぜ」
 無意識のうちにリンは、半ば叱るような口調を出していた。
「金持ちの家へ行くなんてそうそうないんだ。行っておいても損は絶対しないさ」
 熱心な説得が、いったいどこで招待に結びついたのかは覚えていない。一つだけ言えるのは、家主の留守中に無関係の客人を迎え入れる彼女にそれほどの罪がないということ。ごり押しはリンの得意とするところで、膨らむ下心は善意にくるまれれば喉越しもよく、彼女の心へすとんと落とし込まれてしまったようだった。


 甘い言葉の効果は今も持続し続けている。肉の少ないしなやかな体を滑るように進め、ドーンは躊躇など一つも見せず邸宅を通り抜けていく。途中の説明は一切ない。だから調度品の査定は想像も交えて執り行うしかなかった。外装は気温が高いとは言えないシカゴには場違いな、どこまでも白い塗装だった。おかげでただでも膨張して見えるのに、一歩踏み込めばだだっ広いエントランスから始まり、一階の全てが一つの空間であるような間取り。壁に飾られたバッファローの首と捕獲用のロープは、売りさばいたところでろくな金にならないだろう。太い円柱の前で胸を張る中国風の壷も値踏むことは難しい。
 客間に入ったところでようやく心が落ち着いてくる。40インチほどの東芝のテレビ。買ったばかりらしいヨーロッパ製のソファ。子供のように辺りを見回しているリンなどお構いなしに、ドーンは毛足の長い絨毯へ爪先を埋めるようにしてソファへ腰掛けた。
「飲み物や食べ物は冷蔵庫に」
 洒落たガラスのコーヒーテーブルへ開いてあったのはリルケの詩集。あらかじめしつらえてあったかのように、彼女の存在はこの場へぴったりとはめ込まれていた。
「好きに食べて良いって。楽にして」
 最後の注文は、壁の石膏ボードが露出しているようなアパートの一室で暮らすリンにとってどだい無理なものだった。最新の空調機を見上げ、顎を撫でる。この部屋からめぼしいものを運び出すだけでも、二トントラックがいっぱいになってしまうだろう。もしも側にいるのがこれまでに寝たことのある女だったら、間違いなく今すぐ友人へ電話を入れて、車を回していたに違いない。
 もっとも黙って膝の上に目を落としているドーンならば、少々の狼藉に口を出すこともない気がする。あんなしけた薬屋で働いているが、本来彼女はそれなりのお育ちであるとリンはあたりをつけていた。近頃女を漁る場所が、それほど良い場所でないことは認める。だがそれにしたって、レインボーのストライプTシャツをこれほど品よく着こなせる女には、なかなかお目にかかることができないだろう。掴んだだけでへし折れそうな右手首にまとわりつくゴールドが、ページを捲る動きにあわせて小さな音を立てる。微かに開いた薄い唇の奥でひらめく舌は、フレーズが絡んで動きが鈍い。まるで朝日が優しく這うベッドの中、瞼を開いてすぐにおはようと呟くように。
「何か飲むか」
 視線にもそしらぬ顔だから、本の世界に没頭しているかと思った。だが返ってきた声は、予想していたよりもずっとはっきりしたものだった。
「ミネラルウォーターを、お願い」
 視線は細かい文字に走らせたまま、利きすぎた空調のせいか白く見える顔は、微動だにしない。はいはい、と返事をしながらも、リンはますます自らの見解に対する確信を深めていた。人にものを頼むとき「プリーズ」と付ける同年代の女なんて、絶滅危惧種もいいところだ。しかもその発音が、なぜか英国風の鼻にかかったような訛を含んでいるとなれば。

 核戦争に備えているのかと思うほどの図体を持つスリードアの冷蔵庫も、そもそも部屋自体が大きいのだから幾分迫力に欠ける。「エレンの部屋」に出て来そうなほどおしゃれで清潔なキッチンは、この豪邸にあるどの部屋とも同じく寒々しさを感じるほど広い。実際、人もいないのに付けっぱなしの空調が、クルーネックの薄いセーター越しに熱を持っていた肌を冷やしていった。
 食肉業で稼いでいるだけあり、ほとんどが酒のつまみと飲料で占められた中からエヴィアンの瓶とコロナを取り出して、グラスがないかと見回す。巨大なウォークインフリーザーと向き合うように、壁一面に据え付けられた棚にぎっしり高級な食器が入っていると考えただけでも指が疼いた。そういえば、近頃ネイバービルでトラットリアを開いた知り合いが、少し上等な皿を欲しいと言っていた気がする。ビールのために栓抜きも探さなくてはならない。
 食器棚にはめこまれた乳白色のガラス扉が、早く仕事を済ませろと鼻を突きあげている。

 突然踝にまとわりついたぬくもりに悲鳴を上げたのは、水滴に濡れた指先がアルミのサッシに触れるか触れないかという時だった。
 全身に走った衝撃から解放され、硬い動きで首を動かしたとき、気まぐれな元凶は既に彼方へ。シナモン色をした猫はビロードのような腹皮を揺すり、部屋の隅へと向かう。安置されていた白磁のスープボウル前で立ち止まりお行儀よく腰を下ろすと、客人を見上げてにゃあと鳴いて見せる余裕すら持ち合わせていた。
 獣と遜色ないほど足音なく走り込んできたドーンが、平穏な状況に目を瞬かせる。手を振って無事を示し、リンは強く握りしめていた瓶を相手に押し付けた。
「猫だよ。驚かせやがって」
「そろそろ昼ね」
 掲げた手首にはめた時計はカルティエと見た。冷えたミネラルウォーターになど触れずともひんやりしていそうな指で前髪を掻きあげ、ドーンは彼のそばを通り過ぎる。
「缶詰と牛肉をやるの」
「牛肉? 猫の分際で」
 ガラストップコンロの上にある棚へ手を伸ばそうと顎を持ち上げたとき、確かに彼女の横顔が笑みを浮かべているように見えた。
「ミートパイ会社の副社長だから」
 缶切りを扱うどこかぎこちない手つきを横目で窺いながら、リンはチルド室の中からビニール袋に包まれた薄切り肉を取り出した。太いマジックでゆらゆらと記された文字は猫の名前だろうか。書いてあるまま部屋の隅へ「クリシー」と呼びかけても、丸っこく選民意識を持つ顎はついと持ち上げられるだけ。代わりに返事をしたのはドーンだった。
「人見知りみたい。初対面の相手にはあまり懐かないの」
「さっき人の脚におもいっきり毛を擦り付けていきやがったぜ」
 滴った血のこびりつく袋を取り去るリンのぼやきを、金属のかみ合うぎこちない軋みが潰していく。その音すら消えてなくなってから、ドーンはだだっ広い空間に向かってぽつりと呟いた。
「子供と動物に好かれる人間で、悪人はいないでしょう」