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8/9のバッドタイムズ

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 背の高いフェンスを見上げた時点で目が眩みそうだった。きしきしと音を立て擦れ合う白い砂利道を突っ切り、邸宅のベルを押す瞬間にはもう、リンは掌のべたつきをごまかすことが出来なくなっていた。まるでグレート・ギャッツビーの屋敷へおもらいにきたオリバー・ツイスト。数少ない気休めは、開いたドアに塗られたペンキがマホガニーの木目など完全に無視していること。そして、よく知った仏頂面。見据えられた途端、背中じゅうの汗腺がどっと緩んだ気がした。
「よお」
 上顎へ張り付きそうな舌を動かし、かろうじてそう呟くことに成功する。
 警戒など皆無で大きく開け放たれたドアの向こう、敷居の際に佇むばかりで、ドーンは口を開かない、真鍮のドアノブへ柔らかく手をかけたまま、まずは来訪者の存在を頭のてっぺんから爪先までまじまじと見おろしていく。追い返される理由など何もない。別に銃を突きつけているわけではないし、三日前仕事で使用したスキーマスクは車の中に投げ込んである。強いて言うなら紙袋の中のマリファナは御法度の品だが、そもそもこれは彼女を慮って持参したものだった。無表情が過ぎてつまらなさを感じているかのように見える彼女の顔を少しでもほぐしてやりたいと、彼は常々考えていたのだ。
 短いが背筋に沿って汗が流れるには十分な沈黙を経て、ドーンはようやく目の前の存在をしっかり認識したらしかった。今にもその場にへたりこんでしまいそうなリンを誘う合図は、美しい黒髪を揺らしながら顎でしゃくる動作だった。震える男と裏腹に、女の振る舞いはあまりにも堂々としている。それは傲慢ではなく、風格すら漂っていた。この豪奢な建物が、彼女のものであると誰もが信じてしまいそうなほどに。


 リンがドーンと出会ったのは図書館前で、しかも当たり前ながらリンが自発的に訪れた場所ではなかった。当時付き合っていたパーティ好きの女はルーズベルト大学でクラリネットを学んでいて、講義が終わるまで待ちぼうけを食らっていたのだ。呼び出された時は足代わりに使われるのが面倒くさくもあったし、帰路に助手席から飛んでくる学科の自慢話にうんざりさせられることも目に見えていた。だが春もたけなわ、天気は良く風も心地よい。キャンバスの近辺をぐるぐる回って真っ赤なデイトナを見せびらかすにはちょうどいい時候だと言えた。
 で、何周目かのお披露目を終え、いい加減暇を持て余し始めたとき、ハロルド・ワシントン図書館の珊瑚色をした建物から彼女が吐き出されてきた。身を包む看護士のような薄桃の制服は――後で知ったが、彼女は処方箋薬局の受付兼事務員として働いていた――あまりにも不似合いで、むしろ抱えたフォースターの短編集が正体を表明していることは一目瞭然だった。
 確かに口笛を吹きたくなるような美人ではある。だが、普段彼が声をかけるようなタイプではなかった。振り返ったとき見える深い青色の目は静かすぎるし、皮膚から関節が突き出して見えるほどの身体は少し柔らかさが足りない。
「重そうだな、運んでやろうか」
 正直なところを言うと、彼女に足りないものが柔らかさなのか固さなのか、リンは最後まで知ることができなかったのだ。速度を落とした車で追いかけざま軽口を叩いたとき、彼女は自らの腕の中へ視線を落とし、至極真面目に言葉を反芻した。柔らかそうな黒髪はミシガン湖からやってくる春風に揺れ、女の子にしては厳しさを湛えた横顔を遮る。
「そんなに重くない」
 彼女が返事をしたのは、声をかけてからたっぷり20フィート。普通の男ならばとっくに興味をなくして去っていくほど進んでからのことだった。待たせた分の愛想を振る舞う真似もしない。この後に彼が何度も目にする真顔のまま、言葉の字面だけを正確に分析して答える。もちろんその際、ナンパ男の目をまっすぐ見つめる表情がくそ真面目なものであったことは言うまでもなかった。
「ありがとう。大丈夫よ」
 言葉を弾き出してからも歩みを早めるでもなく、親切に対して礼まで述べるのだから堪らない。リンはぶったまげ、故にスターバックスでチャイとマフィンを奢った。
 彼女の職場は大学の数ブロック先、この近隣には珍しく店の前が路駐禁止エリアではない。以来口臭止めドロップやアスピリンを買う時は必ず店へ立ち寄るようにした、例えチェーンのドラッグストアよりもその値段が少々高かったとしても。
 もっとも週に一、二度顔を合わせたからといって、女という常識を覆す物静かさを突きつけられては会話もそれほど弾まなかった。おまけに店の奥で調剤している薬剤師は明らかに欲求不満気味の中年女で、彼がじゃれようとするたびお目当てを呼び付けてあれこれ用事をさせる。
 表情は仏頂面のままでも内心では女の気配り、あからさまな追い立てへ申し訳なさを感じているらしい。去り際昼休みのランチを誘われても、ドーンは滅多なことで断ることはしなかった。そう、クラリネット女と別れた後も、リンが付き合わせたのはランチだけ。手一つ握らないのを何だと思ったのか、近頃ではリステリンのおまけとして紙袋に歯ブラシを一本入れるようになった。
 いつも通り薬剤師の好奇と憎悪の視線に晒されながら、珍しく自ら声をかけたときも、彼女はデンタル・フロスを手にしていた。
「留守番をしてくれって頼まれたわ」
 商品が収まった袋の左端を折る指は、骨の形がくっきり浮き上がっている。マニキュアの気配すらない爪をじっと見つめ、リンは日頃世間話を交わすときと同じ声域で相槌を打った。
「誰の家だって?」
「パルミニ・ミートパイの副社長」
 そこでようやく、彼女の何でもないような態度がひどい誤りであることに気づく。シカゴでは知らないもののいない食肉加工業社の商品は、スーパーへいけば必ず並んでいる。ナツメグが少なすぎるため彼自身はそこまで好んでいなかったが、そんなことを言っていたら母親の留守がちな子供の食べるものがなくなってしまう。カスター将軍と同じで、伝統の虐殺者は偉大な存在だった。
「郊外に家があるんだけれど」
「ただの家なら鍵を閉めて警備会社を入れときゃいいだろうに」
 浮かべる度どんな女でも食い入るように見つめてくる、口角をきゅっと持ち上げるような笑みを作る。
「しこたま金をため込んでるんだろうな」
「資産はほとんど、会社の株だって聞いた気がする」
 もっとも、何となく予想していた通りドーンの視線はフロスの入っていた大きな駕籠から離れない。昼間から付けっぱなしの蛍光灯下でも分かるほどきらめく瞳にも、特に不審を示さなかった。
「金は持ってないって。最新のジャガーへ乗ってるのに」
「詳しいじゃないか」
 目の前の女がミートパイの材料であるかのような顔で、リンは眉をしかめた。
「というかおまえ、どえらい奴と知り合いなんだな」
「ええ」
 その先の言葉を待ち受けるため唇を噤んだのに、ドーンはキャッシャーを元通りに押し込むだけでそれ以上の説明を行おうとはしない。口数が少ない分、一度唇を開くと白黒はっきりした理論を展開する彼女らしくない、非理論的な打ち切り方だった。
 ちんと間抜けな音の余韻が完全に消え去るまで待った後、結局リンは肩を竦めた。
「ま、とにかく。週末はそいつのところで豪遊か。結構じゃないか」