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Parasite Resort 第一章

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「どうしたの?なんか元気ないね?」

 約束の時間に珈琲館にて待ち合わせて、朝食を食べている。テーブルの向かいに座る阿津川玲子(あつがわ れいこ)は、覗き込むようにじとーと旦の顔色を伺って、心配気に言った。

「ん?あぁ、あんま寝てないから」

 睡眠時間が少ないというだけならば、青年期のまっただ中の旦が、これほどに疲労するはずはなかろう。この疲弊の本当の原因は、実際また別のところにあった。

 彼の脳髄はまだ痺れていた。昨夜訪れた不意の快楽に、痺れていた。

(まさかこの歳になって夢精するなんて……)

 長い指を眼鏡にあてがい、くいと押し上げながら、感慨深げに思い出す――あれは……性行為ともまた違うニュアンスの快感だった。まるで生命が融合するような感覚……いや、実際そんな事を体験した事もないのだから空想に過ぎないのだけれど……生命体としての境界線を脅かされるような……そんな感覚だった。あの赤い女の肌が、有り得ない熱を帯びて熱く熱く俺の中に溶け込んできて……俺の中核に達した時に、得も言われる快感が、脳の甘受できる限界を超えた甘美な感覚が、俺の全身を占領してしまったんだ……占有といってもいい……あの一瞬……まるで何かに……何か人智を超越した神にすら近い存在に……俺は、感覚のすべてを乗っ取られてしまったのではないだろうか?だとしたらひょっとしたら……まだあの赤い女は俺の中にいるのだろうか?……現にあの瞬間の忘れがたい快感は……まだ俺の中に熱い凝りとなって……存在している。俺は……

「ちょっと!私の話聞いている?」

「……聞いてるよ」

「聞いてなかったでしょ」

「……聞いてた。だけど頭に入って来なかった。考え事をしていたから」

「もう、今結構大事な話をしてたんですけど」

「何?」

「もう言わない」

「……なんだよそれ」

「それよりも大丈夫?寝てないのは分かったけど、それにしても、なんか顔色が悪いよ」

 玲子の視線が……視線が発する不可視のレーザーが、旦の眼差しに入り込んでくる。反射的に旦は、昨夜の夢精の瞬間――といってもその瞬間には眠っていたわけだからはっきり覚えているわけではないのだけれど――を思い出してしまう。

「そのくせ、妙にスッキリした顔してるよね」

 心臓のどっか、だぶん左心室の辺がギクリと鳴った。

「べ、別にスッキリしたわけじゃないよ」

「スッキリした?」

 言葉の意味を確認するように、玲子が問いただした。

「いや、その……何て言うか、昨日さ、何か変な夢見ちゃって、そいで何か頭ン中ポーとしてるんだよ俺」

「なにそれ?って、どんな夢だったの?」

 詳細に説明するべきではないだろう。そうしようとすれば、男性特有の生理現象について踏み込んだ解説をしなくてはならなくなる。旦は、余計な事は言わずに、映像的な面のみに絞って、昨夜の夢を話した。玲子は、時折コーヒーカップを口元に運んで、微かに傾けながら、視線だけは旦から離さずに、夢の話に聞き入った。

「ふーん……赤い女の人……それって何かの象徴なのかな?」

「さぁ……どうなんだろ?」

「一時期流行ったじゃない。夢判断って」

「うん?」

「きっと、その夢にもなんかの意味があるんだろうね。読んだことある?ユングの『夢判断』って本」

「あるよ」

「じゃあ、それを踏まえて自分の夢を解釈してみてよ」

「踏まえてと言われてもなぁ……ユングはフロイトよりは大分マシだけど、それでもとにかく、当時の心理学てって、なんでも性に結びつけちゃう傾向があるからねぇ」

 と解釈ぶってから、旦は、コーヒーを一啜りする。

「ねぇ」

「ん?」

「気持よかったの?」

 危うくコーヒーをぶちまけるところだった。

「な……何が?」

「その夢を見ている間、ひょっとして性的興奮状態にあったんじゃないの?」

 成り行きとはいえ、朝っぱらからするような会話ではなかった。

「何いってんだよ。そんな理由ないだろう」

「ふーん」

 すべてを見透かしているかのように、玲子は旦を眺めていた。

「ね、その女の人って……私に似てた?」

「それは……」

 気を利かせて「そうだよ。君そっくりだったよ」とでも言っておけば、決して悪いムードにはならなかったはずだが、不器用な草食動物である事、自他共に認めている黒家旦というこの青年は、ひたすらに意識を集中させ、昨夜夢に見た赤い女の顔をなんとか思い出そうとしていた。

 すると。

(私の名はアザゼル)

 旦の意識にアクセスしてきた声。ぐらつく視界。

「クロ?」

 急に固まってしまった旦、呼吸すら止まっているように見える。玲子が怪訝な表情で覗く。

(私は、お前を乗っ取った……お前という人間をハッキングしたのだ)

「ハッキング……」

(そうだ……もはやお前は、私なのだよ……黒家旦)

 旦の脳に響いていた声が途切れた。その途端、テーブルの上に赤い物体が現れた。それは手だった。そして、その手の先を目で追っていくと……そこには昨夜の赤い女の姿があった。女はテーブルの上に手をついて、旦の横に立っていた。目が合う。その眼は赤い。女を映している旦の眼球に、昨夜と同じ熱が疾走った。それは一瞬で全身に伝播していく。

「ちょ…クロ!……キャー」

 玲子が絶叫した。ボクシングの世界戦、チャンプから体重の乗った渾身の一撃を浴びて、電源の落ちたロボットみたくに仆れる挑戦者に同じく、フッと意識を失い。旦は、テーブルの硝子板に向かって、勢い凄まじく倒れ伏した。

*****

「私は、アザゼル……」




作品名:Parasite Resort 第一章 作家名:或虎