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売店のおばちゃんとチョコレート

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 勝手だけれど、私はまるで自分の娘のように彼女のことを気にかけるようになってしまった。でも、みゆちゃんの時のように声をかけるのは、勇気のいることだった。厳しい世の中だし、今の若い子は特に辛いことなどなくても、こんな感じなのかもしれない。そう思っていた。

                    ※※※

 最近、駅の売店でチョコレートを買うようになった。落ち込んだ時に。
普段は甘いものはあまり食べない。でも、辛いことがあった時は甘いものが、特に01チョコレートが食べたくなる。昔から、気持ちが落ち込んだ時には食べ物や音楽やドラマや物質的なもので、気持ちを紛らわせてきた。相談事をするような友達もいない。恋人なんてもちろんいなくて、わたしはいつも一人ぼっちだった。
 仕事の帰りの地下鉄の乗換駅。小さな売店で、うつむき加減で、何も言わずに赤いパッケージのミルクチョコレートと百円玉と十円玉をトレーに置く。
「はい、五円お返し」
 いつもこの売店でチョコレートを買う。売店のおばちゃんの顔も覚えてしまった。どこにでもいそうな五十代ぐらいのおばちゃん。
 三路線が乗り入れるこの駅には乗降客でたくさんの人がせわしなく行きかっている。上りの電車、下りの電車が到着する度にたくさんの人が電車の中から飛び出してくる。これだけたくさんの人がいるのに皆、わたしと同じような生気のない表情をしているように見える。
電車に乗る前にチョコレートのパッケージを開けて一粒、口の中に入れた。いつも買うこのチョコレートは一口サイズのチョコが十二粒入っている。
 甘い。朝から苦い思いしかしなかったわたしの脳みそが今日初めて感じた甘いという感覚だった。
 二粒目を口に入れる。そして、ため息をつく。仕事でミスをした。取引先に大変な迷惑をかけてしまった。単純な発注ミスだった。部長に怒られた。次にミスをしたらクビだと言われた。この能無しが!  と怒鳴られた。
 三粒目を口に入れた。電車が突然、急ブレーキをかけた。手に持っていたチョコレートはわたしの手から抜け落ち、床に落ちた。残っていた九粒はすべて床に散らばってしまった。
電車は動き出して、自分が降りる駅へと到着した。わたしは自分がばら撒いてしまったチョコレートを拾う気力もなく、そのままの状態でホームに降りた。

 それから二週間後、わたしはまた売店でチョコレートを買った。売店の店員は前と同じ顔のおばちゃんだった。わたしはまたうつむき加減で何も言わずにトレーに赤いパッケージのチョコレートと百円玉と十円玉を置いた。
「はい、五円お返し」
 前回と同じようにおばちゃんの顔をちらりと見る。やはり、前と同じおばちゃんだ。

 わたしにはひそかに思いを寄せていた男性がいた。同じ部署の三歳年下の男性。いつも明るくて、元気で、頭が切れて、仕事もバリバリこなし、人当たりもよく、稚拙な表現だけど太陽のような笑顔をもったさわやかな男性だった。
 そして、彼は自分の周りの皆にやさしい、思いやりのある男性だった。 それは美人でもかわいくもない、何のとりえもないわたしにも……。
 一週間前、私は風邪をひいて体調を崩してしまった。朝起きて、体温を測ると熱は三八度一分。何でもない普通の日であれば、仕事を休ませてもらうところだったが、その日は大事な会議があり、休むわけにはいかなかった。
 しかも、その会議は彼がリーダーで、社運のかかった……とまではいかなくてもとても重要なプロジェクトの会議だった。
 わたしは無理を押して出社をし、会議にのぞんだ。意識は朦朧としていたが、会社の為に……いや、好きな人の為にすこしでも力になるのだと、頭がい骨の中心から頭の中を四方八方に広がる痛みに耐え、胃からせり上がってくる、無情で非情な吐き気と闘いながら必死に会議室の椅子にへばりついていた。
 会議が始まり、十五分が経過した。では、資材調達のコストとその実用性について、斉藤のほうから説明させていただきます。
名前を呼ばれ、立ち上がったその時だった。必死に闘っていた、無情で非情な生理現象にわたしは屈してしまった。会議室の机の上に液体が滴りおちる。会議室の中に酸性の嫌なにおいが立ち込める。
「斉藤さん! 大丈夫ですか?  体調、悪いんですね?  すぐに医務室に行きましょう」
ざわつく重役たちの視線を遮るように彼はわたしの横に立ち、わたしの腕を優しくつかみ、会議室から出て医務室へ連れて行ってくれた。
「ちょっと、顔が赤いなあとは思っていたんですけど、気づかなくて本当にすみません」
 わたしのような人間にこんなにやさしい言葉をかけてくれた男性が今までにいただろうか?
 わたしは彼に恋をしてしまった。でも、それは叶わぬ恋だった。

 彼が皆の前でわたしの同期の女性と結婚をすると報告をした。大事なプロジェクトの途中でこんな報告もどうかと思ったのだけどと彼は言っていたが、同僚は皆、びっくりした顔で二人のことを祝福した。二人が結婚するような関係であったことにわたしはもちろん、誰一人として気づいていなかった。わたしは彼への思いが叶うなどとは夢にも思っていなかったが、やはりショックだった。 わたしがひそかに思いを寄せていたことなど、彼は知る由もなかっただろう――。
 わたしは失恋した。これが今日チョコレートを買った理由。
 電車に乗る前にチョコレートのパッケージを開けて一粒、口の中に入れた。甘い。ただ、甘いという味覚しかない。その“甘い”は自分が持っているどの感情とも結びつかなかった。
ホームに電車が到着する。いつもはたくさんの人が降りてくるのに、なぜか今日はあまり人が降りてこない。
 電車に乗り込んだ。でも、なかなか電車は発車しない。どうやらひとつ先の駅で、何かトラブルがあったようだ。
 二粒目のチョコレートを口に入れる。何も感じない。三粒目、四粒目、甘いはずのチョコレート、美味しいはずのチョコレートなのに……。わたしは自棄になって、残っているチョコレートをすべて口の中に放り込んだ。
 まわりの乗客がちらりちらりとわたしを見る。わたしの口の中はチョコレートでいっぱいになり、頬は限界まで膨らみ、やがて目にはうっすらと涙が浮かんでくる。
わたしは電車から降り、ホームにある水飲み場の排水溝に口の中に残っているチョコレートをすべて吐き出した。さっき、チョコレートを買った売店のおばちゃんがわたしのもとに来て背中をさすってくれた。おばちゃんは何も言わずにただ、私の背中をさすってくれた。
 でも、チョコレートをすべて吐き出してもわたしの涙は止まらなかった。

                    ※※※

 今日もあの子は辛そうな顔をして、チョコレートを買っていった。職場で何かあったのだろうか? それとも、失恋でもしたのだろうか? 友達に裏切られたりしたのだろうか? 前に見た時より、げっそりとしていて、痩せてしまっていたように見えた。