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プリンス・プレタポルテ

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10.ベアトリス


 頭がぼんやりするのは生まれて初めて口にするジン・トニックか、先ほど胸いっぱいに吸い込んだボーイの不思議な洗剤の匂いが混ざった体臭のせいか。ライムのスライスをかじり、ついでに指先までしゃぶりながら、ベアトリスはロビーの広いガラスから世界を見下ろしていた。人気のないプールサイドと丁重な植え込みの向こうは絶壁で、豊かな自然は騒乱にも何一つ動じることなどないのだということを証明している。さざなみは濃紺の温かい海を優しく揺すり、険しい巌にも、砲弾を打ち込まれて走行不能になり煙を噴出す港湾の貨物船にも平等にぶつかっては静かな白波を以って優しく宥め続けていた。この場所に紛争の匂いが殆ど漂うことなく、時折響く地響きだけが現実を知らしめる。
「やっぱりナッツは駄目。たとえドライフルーツでも、何かベリーをとるのが一番じゃないかしら」
 目の前の婦人は先ほど3杯めのドライ・マティーニに手を出し始めており、その都度よく響く声でフロア係を呼び出してはミニバーまでの僅かな距離を往復させる。ベアトリスはグラスを握りなおし、人差し指を口から離した。
「ええ、私、あんまり豆は好きじゃなくて」
 彼女がおずおずと言葉を受けると、女は大仰に首を上下させた。
「それが良いわ、ナッツの脂肪は馬鹿にならないわよ。特にあなたみたいに若いお嬢さんは、ニキビが出来たら大変だもの」
 顎が二重になってつぶれる度、ベアトリスは沸き立つ嫌悪と戦わなければならなかった。化粧気がないか濃く塗りつぶしているかの違いはあれど、不自然なほど白い贅肉は、昔自分も近い将来ああなるのではないかと恐れた、野暮ったくて人の噂話を生きがいとする近所の主婦達と遜色なかった。隣で新聞を片手に腰を下ろす彼女の夫も同意見のようで、自らの妻が大口を開け叫びを爆発させるたび、不愉快そうに眉を顰めては記事に集中しようと努力している。
「飲みすぎじゃないか」
 先ほどから一度として捲ることのない新聞に語りかけるよう静かに、そして苛立たしく、彼は妻を嗜めた。
「平気平気、こんなのたいしたことないわ」
 ごくりとグラスの中身を半分ほど飲み干し彼女は笑った。夫はホームドラマの父親のように大仰な仕草で肩を竦める。
「大体、外にも行けないし、他に何をしろって言うのよ」