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プリンス・プレタポルテ

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1.ベアトリス



 1959年1月4日、ハバナは独立以来最大の混乱の渦中にあった。年が変わろうとする直前、新年祝賀会で行われたフルヘンシオ・バティスタ大統領の突然の辞任演説は国内に大きな衝撃を与え、その数時間後に7月26日運動の指導者フィデル・カストロ配下が首都に突入。古きよきスペインの面影を残す貿易都市を硝煙と悲鳴の嵐に叩き込んだ。



 ベアトリスがそれだけの情報を得ることが出来たのは部屋のシーツを換えにドアをノックした若いボーイと交わした会話のおかげであった。今まで来ていたメイドはどうしたのかと尋ねると、片言の英語で「行方がわかりません」とのこと。チップを差し出すと「逃げるときに必要だから持っていなさい」と、それほど年の変わらない青年は真面目な顔で辞退した。

 時計を見れば針は頂上を少し過ぎたところだった。昨日の昼を最後にホテルのグリルにある食品は底をつき、項垂れる支配人に苦情を言うこともできないまま、彼女を含むホテルの宿泊客達は持ち合わせの食料と水で細々と命を繋いでいる。彼が二日酔いを醒ますためにがぶ飲みしていた大きなミネラルウォーターのガラス瓶は中身が半分ほどしか残っていない。食べるものといえば、まだ平穏さを残していたハバナの町で購入した菓子や、アメリカから持ち込んだ缶詰ばかり。今朝何かが爆発する音と主に浅い眠りから引き戻された彼女は、この時間までずっとネグリジェのままシーツの中で耳を押さえ続けていた。生まれて初めて、彼女は理性ではなく本能から湧き上がる命の危機を覚えていた。


 急に、身体を壊すほど塩辛いスパムの缶詰が彼の服と服の間に挟み込まれいたことを思い出し、腹の虫が悲鳴を上げた。どんなに恐ろしいときも空腹は訪れる自分の体が情けなかった。新しいシーツの上から飛び降り、ベッドの下から古びたトランク・ケースを引き出しす。長年乱暴に扱われ、世界のあちらこちらを連れまわされた結果、皮の色は更に深まり、閉め切ったカーテンの隙間から漏れる光に美しいなめしの艶をさらしていた。
 しゃがみこんで錠に手を伸ばした途端、眼が膨れ上がるような感覚と共に、熱い涙が瞼からこぼれだした。発射音は遥か遠くに霞み、代わりにきーんと甲高い音が耳の奥で反響する。