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濃霧の向こう側に手を伸ばして

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 そう遠くはないという事か。そういえば彼女がこの家に住み着いてから、キリ一人で外出した事はない。俺が不在の時は、家の鍵を持っていないキリは外出ができないのだ。
「病院、いつ行くの」
「武人の仕事がお休みで、武人に何にも用事がない日、ある?」
 俺は布団から立ち上がると玄関から鍵を持って来た。家の鍵だけを輪から抜き取って、「はい」と鍵が乗った手の平を差し出す。
「明日、もし病院やってるなら行ってきなよ。俺が家に帰る頃までにキリも帰ってきてくれればいいから。たまには買い物とかもしてきなよ」
 キリは少し震える指先で、俺の手の平に乗った銀色の鍵をつまみ上げ「いいの?」と首を傾げる。触れた指先は氷のように冷たかったし、彼女の手の甲はいつ見ても、青白い。ふと、幻でも見させられているのではないかと錯覚する。
「別にキリの事、監禁してんじゃねーし。ただ、ギターとか盗まれたくないものがあるからさ、戸締まりだけはよろしく」
 鍵を渡したという事は、キリを信用したという事になる。自分の中で、それでいいのか、と何度かやり取りをした挙げ句の選択だった。キリは俺の傍にいたがっている。近づきたいと思っている。逃げるはずがない。全くの他人なのに、ここまで信用してしまう自分は、お人好しにも程があるなと思い、キリに背を向け苦笑する。
「鍵、やったぁ」
 子供が、欲しかったおもちゃを買ってもらった時のように、笑みを浮かべて鍵を裏表させながら眺めている。何の変哲もないその金属の固まりに、目を輝かせている。
「なくすんじゃねーぞ」
 こくり、頷いて鞄の中から取り出した、一回り小さいショルダーバッグのポケットに差し込んだ。
 電気を消して、布団を掛ける。
 六畳一間の狭い部屋で一緒に生活し、同じ空気を吸っている。しかし彼女の「約束」は果たされない。一体「約束」とはなんなんだ。誰と約束をしたのか。解けないパズルは追えば追う程手元からはなれ、解を容易に示してはくれない。