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濃霧の向こう側に手を伸ばして

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 それからは、職場に着くと一回、仕事中に一回、昼休みに一回、午後に一回、帰る前に一回メールをした。それでキリは満足らしく、玄関の前で待っている事もなくなったし、勿論鍵を隠す事もしていない。いつも夕飯を作って待っていてくれる。洗濯物を畳んで、掃除をしておいてくれる。キリが日常に融け込んいる。
 彼女に対して何か特別な感情がわいてきている気がし始めた。しかし、どうしたって彼女の正体がよく分からない。だから自分の感情のぶつけ先が分からない。なぜ俺に近づき、俺の家に住まい、それで満足しているのか。それが分からなければ、自分の思いをぶつける事も、彼女の感情を受けとめる事も、どちらも満足にできない。
「今日はカレーだよー」
「匂いで分かる」
 俺は少し乱暴に言って上着をハンガーにかけると、ちゃぶ台の前に座った。冷えきった顔面に、カレーから立ち上る湯気が当たる。レトルトじゃないカレーなんて、久しぶりに口にする。
「子供の頃、カレーって凄くご馳走じゃなかった?」
「あぁ、確かに。実際すげぇ簡単に作れるのにな。母ちゃん出し惜しみしてんじゃねーよって感じ」
 キリはケタケタ笑って、湯気の立つカレーを自分の目の前に置いた。
「キリの家は、福神漬けって一緒に食べる家だった?」
「うちは食べない家だよ。武人は?」
 うちもだよ、と返事をしながら、俺の心の中に少し暖かい物が流れた。キリにもカレーを一緒に食べるような暖かな家族がきちんといる事を知った。少なくとも子供頃はそうだったのだろう。しかし、今は、どうしているのだろう。
「キリ、家族とは一緒に住んでないの?」
 一瞬、彼女の顔に影が落ちた。俺は驚いて瞬きが増える。
「住んでないよ。家族なんていないよ」
 鍵の在処を白状しなかった時と同じ、無機的な声を出している。どう贔屓に聞いても、それが虚言だという事は分かった。キリはあまり嘘を吐く事が上手ではないのだろう。こうして顔を合わせている時は特に、嘘は吐けないらしい。
「心配してるんじゃないの。もし一緒に住んでないにしてもさ。連絡取れないと思ってんじゃねーの」
 スプーンを握ったまま、表情が読み取れない程に俯いてぼそっと「家族の話はもう、いいから」と言った。ヘアゴムに届かなかったサイドの髪の毛で、彼女の表情は隠されていて、どんな表情をしているのかが分からない。俺はこの重い空気をどうにか軽くしたくて言葉を探したが、良い言葉は転がっていなくて、捉える寸前で逃げて行く言葉を頭の中で追いかけながら、黙ってカレーを食べた。キリは顔をあげず、ゆっくりゆっくり、カレーを口に運んでいた。

 キリがやっと口を開いたのは、俺がシャワーから出た後だった。
 ギターケースからギターをとりだし、シールドとチューナーをつないでペグを動かす。デジタルチューナーのランプが真ん中に差し掛かると、次のペグへと手を動かす。
「ギターの練習?」
 俺は一時間ぐらい聞いていなかった彼女の澄んだ声に酷く安堵して、思わず笑みが零れていた。
「ギターのっつーか、歌もね。ヘタクソで悪いけど、小さい声で歌うから。耳塞いでていいよ」
 俺は片手にピックを持って、手書きで書いた歌詞を見ながら歌い始めた。キリはベッドにうつ伏せて、手の平に小さな顔を乗せてこちらをじっと見ている。見られる事には慣れている。あのように大きな駅で、時には何十人と言う聴衆の前で歌ったり、ライブハウスなら百人を超える人の前で歌うのだ。
 しかし今日は、キリ一人なのに、俺は妙に緊張していた。なぜなら、キリの瞳に、涙が浮かんでいるのが見えたからだ。それがこぼれ落ちないように、細かく瞬きをしているのが、目に入る。俺は少し身体の向きを変えて、彼女を視界から排除した。そうでもしないと、ストロークしている腕を止めてしまいそうだった。ギターを置いて立ち上がり、抱きしめてやったかもしれない。
 いつも路上で歌っている歌を一通り歌った所で、ギターをケースに仕舞い、残っているビラの枚数を確認した。明日の弾き語りにはまだ足りそうなビラをクリアファイルに入れ、ギターと一緒にケースにしまう。
「ねぇ、武人」
 ん?と顔を向けると、彼女は少し寂しそうな笑みを口元に湛えて言った。
「今関さんに似てるのって、嬉しい?」
 俺はいきなり出てきたその人の名前に面食らって「へ?」と素っ頓狂な声を上げる。
「まぁ、有名な人だから、嫌な気分ではないけど。でも同じ音楽をやってて、顔が似てて、しかも声まで似てるとか言われて、そうすると俺、二番煎じみたいだから、本当はあんまり言われるの、好きじゃないんだ」
 ケースを壁際に立てると、足元にあった布団をベッドの下まで引っ張ってきた。キリは俺の動きをじっと見つめていた。口元に笑みをたたえたままその表情を変えない。
「嫌かも知れないけど、本当に、似てるね」
 その声は少し無機的で、張り付いた笑顔もどこかぎこちなく見える。紙粘土が乾き始めた時のような、少し潤いの足りない雰囲気を醸していた。
「嫌だって言ったの、聞いてねぇのかよ」
 ふっと空気が漏れるような笑い方をしたキリは、ベッドにごろんと横になった。立てた膝にパジャマの裾がミルフィーユのように重なって、細くてギスギスした脚が見えている。何かを考えているようだったから、俺は何も言わずに布団を敷いた。
「武人と同じ空気を吸って生活してるのって、私だけだね」
 今関さんの話に戻るのかと思って構えていた自分が、ゆるりと力を抜く。しかし彼女が話し始めた言葉を何度か反芻してみても、俺には理解できなくて「は?」と訊き返す。
「こんなに沢山の人の中から武人を探し出して、やっと同じ空気を吸えて、武人はやっぱり優しくてさ。これ以上望んじゃいけないんだろうなって、思うんだよ」
 ちぐはぐな彼女の言葉に俺は頭を痛めた。まるで難解なパズルのようで、俺には解けない。彼女が何を言いたいのか、さっぱり分からない。
「これ以上望んじゃいけないって何。何を望もうとしてんの」
 放った言葉は暫く空をさまよって、キリの耳から脳に伝達されるまで時間がかかる。
「武人が欲しい。自分の物にしたいよ。でも私は所詮他人だから。約束なんて果たされないんだから」
 約束、という言葉。瞬時に絡み付いた小指を想起する。やはり、彼女の中の「約束」には何か重い意味が込められているのだろう、と推測する。
「俺、キリの事、何も知らないからさ。もっと色々教えろよ。そしたら俺だって、キリのものになるかも知れないし、ならないかもしれないし。キリは謎が多すぎるんだよ。抱えすぎてんだよ」
 キリはすっと身体を起こし、「歯磨き、する」と言ってベッドから降りた。俺もそれに追随して、横並びで歯を磨く。キリが使ったコップを、次は俺が使う。家族のような、彼女のような、そんな風に感じてしまう。
 それから彼女はいつも通り、白い紙袋からカラフルな薬を取り出して、テーブルに撒き散らし、それを片手で回収し、片手に集める。まるでラムネでも食べるように口に放り込んで、水で飲み下す。
「あ、薬そろそろ貰って来ないとな」
 白い紙袋を振りながらそう言う。
「どこの病院行ってるの?」
「横浜駅の近く」