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赤のミスティンキル

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§ 終章




 気が付けば煌々と照る月を見ていた。

 時は深夜。
 おそらく、ずっと前から天上を見上げていたのだろう。ようやく我に返ったミスティンキルは仰向けになったまま、ほうっと息をついた。真っ白な吐息が立ち上り、そしてはかなく消える。
(……帰ってきた、のか?)
 ミスティンキルはがばりと跳ね起きると両の目をこすり、周囲の景色を見た。夜目を利かせると、二本の柱がそばに立っているのが薄ぼんやりと見えるが、ここは以前自分達が“炎の界《デ・イグ》”に赴いた場所と同じ場所なのだろうか。アリューザ・ガルドに無事還ってきたというのだろうか?
 いや、そもそも自分は本当に“炎の界《デ・イグ》”に行き、さらに月まで行ってきたのだろうか。実は、あれらは全て、自分の夢の中での出来事だったのではないだろうか?

 様々な疑念が頭の中に浮かび上がるが、それらは全て一瞬でかき消えた。
 彼は背中に翼を得たのを察知したからだ。
 およそ絵空事としか思えない奇妙な出来事の数々が、彼が夢の中で見た空想ではなく、現実に起こった――いや、自分達が“起こした”出来事であるということを確信した。
 彼の翼は、アリューザ・ガルドでは目視は出来ないが、それはやはり龍の翼に似た形をしているのだろう。そうして、飛ぶようにと念ずれば、たぶん空高く舞い上がることが出来るだろう。ウィムリーフのように。
 そして、炎を象徴する魔力が自分の体内に渦巻いている。
 ミスティンキルは“炎の司”になったのだ。しかも、きわめて力の強い司に。彼が望めば、そう遠くない未来に“司の長”の頂点に立つことすら可能だろう。自由奔放な今のミスティンキルはおよそ望むはずもないだろうが。

 さらに“炎の司”の資格だけではない。魔法の頂点といえるもの、“魔導”をも彼は習得していた。
 今までの自分では知るはずもない膨大な知識が、頭の中に全て入っている。それは魔導に関するありとあらゆる知識だ。目くらましのような簡単な術。占いや儀式の行い方。そして――人間一人ではとても制御しきれないほどのすさまじい威力を持つ、破壊の魔法すらをも彼は得ていた。これらはミスティンキルが生まれながらに持っていたものではない。全てユクツェルノイレと、“封印核”内部の多種多様な“原初の色”の帯から受け継いだものだ。

 人の手によって為された魔導の封印は今再び人の手によって解かれ、解封に携わったミスティンキルは、魔導のすべを知り、かつ行使できる者となった。ユクツェルノイレの言葉のとおりならば、ウィムリーフもまた同様の力を得ているはずだ。
『魔導の継承はミスティンキル“達”に託したい』
 とユクツェルノイレは言っていたから。
 その時、冷たい風が彼の体をなでた。ミスティンキルはぶるりと身震いした。春とはいえども、やはりエマク丘陵から南部イグィニデ山系にかけて、デュンサアル一帯の高原地方の夜は底冷えがするものだ。

 時はアズニール暦にして一一九七年、春の初め。

 かつての封印から七百年以上という、人の子にとっては長すぎる時を経て、魔導のすべはここに復活した。
 魔導を身に得た彼らが、これから辿る道はどのようなものになるのだろうか? それは龍王やユクツェルノイレですら分からないこと。すべては、ミスティンキル達が切り開いていくものなのだ。
『ウェインディルを見いだせ』
 ユクツェルノイレはそのように言った。もう一人の大魔導師を見つけろ、と。
 魔導を極めた、“まったき聖数を刻む導師”ユクツェルノイレの助言に虚偽はないだろう。だが、それよりも前に、自分達にはやらなければならないことがある。冒険書の編纂だ。

 くしゃみの音がひとつ。
 見ると、ミスティンキルのすぐ傍らではウィムリーフが寝入っていた。体を丸めて膝を抱え、寒さに耐えながらも、彼女はまだ眠りから覚めることはなかった。ミスティンキルはかがみ込み、柔らかな感触のする彼女の髪の一房をなでる。ドゥローム達の居住地域に入る前に、ウィムリーフは黒く髪を染めていたのだが、別世界での冒険を経ているうちにいつの間にか染料が落ちてしまっていたようだ。やはりウィムリーフには銀色の髪こそ一番似合う。

 ミスティンキルは自分が羽織っていた上衣を脱ぎ、彼女にかけてやった。ドゥロームの衣。それは月の世界の湖でずぶ濡れになり、真珠の塔の頂上で脱ぎ捨てたはずの衣だったが、どうやらイーツシュレウが気を利かせてくれたものらしい。あの小公子は言葉どおり、アリューザ・ガルドへ帰還するにあたって服を乾かしてくれていたのだ。
 赤い衣の中から、蝶ほどの大きさの妖精が一人、もぞりとはい出てきた。白銀に輝く小柄な彼――もしくは彼女は、ミスティンキルにぺこりと頭を下げると、空高く、月へと向かって舞い上がっていった。
(月の妖精か……しかしまあ、今までいろんな連中と会ったもんだ)
 龍王イリリエンと蒼龍の戦士アザスタン、“炎の界《デ・イグ》”の龍達。そして“自由なる者”ディトゥア神のイーツシュレウと魔導師ユクツェルノイレ。
 彼らの姿が頭をよぎる。バイラルが一生を遂げたとしても、これだけの力を持つ者達と会うことなどまずあり得ない。自分達は実に貴重な体験をしたのだ。

「まあ、ひと月かふた月か分かんねえけど、当分はお前の書く冒険書とやらの手伝いをせにゃならねえんだろうな。……しかしよくやったよ、おれたちは。自分のことを自分でほめちゃあ世話ねえが……ありがとうな、ウィム」
 その率直な言葉は、ウィムリーフが起きているときであれば彼は声に出すことが出来なかっただろう。そうして自分も彼女の傍らに横たわり、そっと背中からウィムリーフを抱きしめた。恋人の体から伝わってくる心地よい温かさと匂いが、なんだかとても懐かしいもののように思え、ミスティンキルの心を落ち着かせていく。

 風が再び舞う。土の匂いや木々のざわめきが、ミスティンキルの感覚を優しくなでる。
 アリューザ・ガルド。物質が確固として存在するこの世界に、無事帰還を果たしたことを、確かに感じ取ることが出来る。
 自分が生きていく世界は他でもない、アリューザ・ガルドだ。自分の過去には思い出したくもない色々なことがあったにせよ、“ここ”こそが一番いたい場所なのだ。はじめて、彼は実直に嬉しくなり、首を星空に向けた。
 澄み切った天上。“炎の界《デ・イグ》”に転移した昨晩と変わらず、空には数限りない星々が瞬いていたが、なかでも月の姿はやはり別格だった。一昼夜を経て今夜は満月。月は真円を象り、空の周囲にあるであろう星達の姿を、白銀の輝きでもって消し去ってしまう。
 あの遠く離れた次元にある世界、月の世界に今し方まで自分達がいて、アリューザ・ガルドを見ていたのだ!
 にわかには信じがたい出来事が多々起こり、そして帰還を果たしたことについて、あらためてミスティンキルは途方もない達成感を覚えた。

 やがてゆっくりと、睡魔が彼を襲う。彼自身はもっとウィムリーフのぬくもりを感じていたかったが、極度の疲労と眠気に打ち勝つことはついに出来なかった。否応なく、ミスティンキルは眠りの縁へと再び落ちていった――。

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作品名:赤のミスティンキル 作家名:大気杜弥