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雪の華~Wintwer Memories~Ⅲ

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始業ベルが鳴って三十分経過した頃、輝は総務部長から呼ばれた。いよいよおいでなすったかと警戒しながら行くと、意に反して、部長からは資料を一部、受付にまで持っていって貰いたいというものだった。
「判りました」
 お辞儀して踵を返そうとした背中に、部長の声が追いかけてくる。
「いつもなら藤堂君に頼むんだが、生憎、今日は早退してしまったからね。君に使い走りのようなことを頼んで申し訳ない」
 美奈子の名前が出たことで、輝は勇気を得た。くるりと振り向き、真摯な瞳で部長を見上げた。入社以来九年間、異動することもなく、この人の下で部下として修練を積んできた。けして愛想の良い上司ではないけれど、部下に対しての心配りや公正さは他の上司よりもはっきりしている。こういう人の下で働けて良かったとも思うし、尊敬もしている。
 来春の人事では、いよいよ総務部長から常務取締役になるとの噂もあるほどのやり手だ。
「部長」
 輝は両手を膝の前で握り合わせ、部長の前に佇んだ。ふと気づくと、総務課の片隅の机から、紘子が心配そうなまなざしをくれていた。
 大丈夫というように紘子に軽く頷き、輝はまた部長に向き直った。
「例の噂のことですが」
 と、部長は〝もう良い〟とでもいいだけに手を振った。
「君は気にするには及ばんよ」
「しかしながら―」
「それとも、君は申し開きを改めてしなければならない必要でもあるのかね? この私が良いと言っているんだ。君は何もなかったような顔でいつもどおりにふるまっていれば良い。むしろ、つまらない取るに足らない噂を気にして、日常の業務に差し障りが出たとすれば、そのことの方が問題だぞ」
 はいと、応える声がかすかに揺れた。輝を見つめる部長の双眸に、いつもの厳しさはなく、むしろ娘を見守る父親のような労りの色があった。
「私が好きな諺にこういうのがあるんだよ。本間君。天が遠くにあるからと甘く見るな。これがどういう意味が君なら判るだろう? 良いことも悪いことも天はすべてお見通しだ。この程度の悪事ならバレないと高をくくっていても、天はちゃんと見ているし、君のように普段から人眼につかないところで一つ一つ積み上げていっている勤勉で善良な人間のこともな」
 続いて部長は語った。以前から、こういう悪質なメールは割と再々、幹部たちに送りつけられたのだという。大抵は棄てアドを使い、内容もそのときによりまちまちだった。○○課の誰々が不倫しているとか、○○部の部長が接待費を水増しして貯めた金でマイホームを購入したとかで、いずれもが調べてみても事実無根のものばかりだった。
「だから、今回の件もこれが初めてではないし、何も愕くには値しない。ましてや、本間君のこれまでの地道な働きは直属の上司である私はもちろんのこと、他の部署の部長たちも周知の事実だし、社長にも報告はいっている。こんなくだらん噂は誰も信じるどころか、一笑に伏すだろう。来年、私も多分、異動になるだろうが、そのときは是非とも君についてきて欲しいと思っているんだ。また考えておいてくれたまえ」
「部長、それは」
 問いかけた輝に、部長は普段、滅多に見せない人懐っこい笑みを浮かべた。
「つまりだね。常務になったときには、君に第一秘書を任せたいと考えているんだ」
 常務の第一秘書というのは、社内でもかなり重要なポストであり、エリートコースの登竜門といわれていて、秘書課の課長を兼ねる羨望の的であった。内容は常務の仕事を秘書としてサポートする他、秘書課に属する若い社員たちを統括・教育する係でもある。
「私にそんな大役が務まるでしょうか」
 ありがたい話ではあるが、自分のようなたいした働きもしてこなかった人間には、少々抜擢がすぎるのではないか。
 総務部長が笑った。
「おいおい、どうして君はそんなに自分を卑下するんだ? 大体、君は自分を過小評価しすぎだよ。あまりの自信過剰も考えものだが、本間君はもう少し自信を持った方が良いんじゃないのか」
 話の最後に、部長は表情を引き締めた。
「しかし、ここまで似たような騒動が重なっては、会社側としても、もう放っておくわけにはいかんな。いや、実はここだけの話だが、どういう輩がこういう実に低俗な子どもの悪戯のような悪事をしでかしているかは大体は察しが付いてるんだ。我が社にも隠密裡にそういったことを調べる機関があるからね。まあ、そろそろ潮時かな。社長や人事の方とも相談して、いずれ近い中に取るべき処置は取ることになると思うよ」
「判りました」
 輝は頭を下げ、今度こそその場を辞した。
直属の上司がちゃんと自分の地味な働きぶりを見ていてくれた、そのことは輝の心に温かなものを呼び覚ました。天が遠くにあるからと甘く見るな、確かにその通りなのかもしれなかった。 
 部長から託されたのは、今日の来社予定客の一覧だった。これを受付に回して、くれぐれも粗相のないように応対するように伝えてくれというごく簡単なものだ。
 一階まで降りていくと、例の受付嬢三人が並んだ小鳥よろしく行儀良く立っていた。流石に会社の顔と言われるだけあり、どの子も皆、若くて綺麗な顔立ちをしている。その割に、髪型も皆同じ、化粧の仕方も同じように見えて個性がない。
「これを総務部長から託かってきました。本日の来訪予定者の名簿一覧です。くれぐれも応対に失礼のないようにとの伝言があります」
「判りました。お疲れ様です」
 真ん中の子が両手で受け取り、慇懃に頭を下げる。輝と視線がまともに合うと、慌ててうつむいた。と、左隣の子はどうも込み上げる笑いをかみ殺しているようである。本人は輝にバレていないと思い込んでいるようだが、バレバレだ。幾ら美人でも、この演技力では女優になるのは向いてないわね。
 輝は心の中で呟いた。まあ、このまま事が終われば、輝も強いて事を荒立てる気はなかった。別に自分より若くて可愛い子を苛めて悦に入る趣味はない。
 ところが―。輝が背を向けて数歩あるいたところで、後方からドッと笑い声が上がった。
「嫁かず後家が―」
「あれじゃ、通夜に出席した方が良いような格好―」
 悪意ある言葉の端々がどうしても耳に入ってくる。もう、我慢できなかった。
 輝は振り返ると、つかつかと彼女たちの方に戻った。
「良い加減にしてくれない?」
 輝がよほど怖い顔をしていたのか、右端の子はもう早々と眼を潤ませている。
 それが何? と言いたい。若くて多少見栄えが良いからといって、甘えないで欲しい。いや、甘えるのは勝手だが、だからといって他人の心を無闇に傷つける暴言を吐き散らして良いものではない。
「あなたたち、今朝から何か私に言いたいことがあるようだけど、あるのなら、堂々と言いなさい。他人に聞こえないように話すつもりなら、もっと人気がない場所で話すものよ。聞こえよがしに陰口をたたくのは感心しないわね」
「あ、あの」
 中央の子がしどろもどろになりながら口を開いた。
「何か言いたいのなら、一対一でちゃんと聞くわよ?」
「い、いえっ。済みませんっ。本当に申し訳ありませんでした」
 真ん中の子が頭を下げた途端、右端の子はワッと泣き出した。つられたように左端の子も泣いている。