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もっとも愛しく最高のもの

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 さく也の唇が一瞬、りく也の唇に近づく素振りを見せて止まった。ここは日本で欧米風の挨拶、それも二人の間では日常的なmouth to mouthでは、たとえ兄弟同士でも奇異に映るだろう。双子ではあるが二卵性の上にそれぞれ両親に似たので、一見ではそれとはわからないから尚更に目立ち、誤解は必至だ。
 ドアが閉まったのを確認すると、さく也は軽く手を振る。それを合図に車が動き出した。
 りく也は慌てて窓を開け兄の方を見たが、彼の後姿はすっかり暗くなった暮れ方の雑踏に紛れつつあった。
 コートのポケットでは、また携帯電話が震えた。それを忌々しく思いながら、りく也は見えなくなったさく也の姿をいつまでも追った。



「これは私の二番目の娘で○○と申します」
 紹介された女性ははにかんだ笑みを浮かべ、頭を下げた。りく也はお愛想程度に笑って「祖父江です」と応える。今夜は彼女で五人目だ。巨大コンチェルン・祖父江グループの御曹司で独身、間近に二十七才になる若さともなれば、パーティーでの娘の『売り込み』は熾烈を極める。しかしりく也にはまったく興味のないことだった。だから名前も耳の中を素通りしていく。
 第一、自分で伴侶を決める権限はりく也にはない。父がそれを握っているからだ。父にとって血縁はビジネスの駒である。端整な容姿と高学歴、ゆくゆくは祖父江グループを背負い立つりく也は、三人いる息子の中でも最高の手駒だった。当然、そんな息子の結婚はグループに有益でなければならず、花嫁候補は厳しく吟味される。りく也本人の好みなど、反映の余地はない。だから娘を売り込むのなら、自分ではなく父のところに行くべきだと思うりく也であった。
「砂川議員がお帰りです。ご挨拶、なさるようにと」
 父の秘書が耳打ちする。彼の目配せの先には、恰幅の良い、年齢の割には脂ぎった男の姿があった。キング・メーカーとして、実質日本の政界を牛耳る与党の現職衆議院議員で、今夜のパーティー客の中では一番の大物だ。傍らには父の姿も見える。実は父がりく也の結婚相手にと考えているのは、砂川議員の孫娘だった。彼が出席すると思われる集まりには、必ずりく也も出席させられた。
 政治家はリスクの高い商売である。何かあれば幾ばくかの火の粉が降りかかり、多少に関係なくそれなりの瑕がつくものだ。特に砂川ほどの大物ともなれば、『闇』は背負っているだろう。そんな彼を利用こそすれ、縁戚関係を結ぶことには慎重になる計算高い父が、今回はなぜか熱心だった。
 砂川との深いつきあいにはリスクが伴うのではないかと父に尋ねると、こともなげに答えた。
「母方は、皇族に連なる名門だ」
 父親である砂川の次男は政治家ではなく、人畜無害の国立大学の教授である。失脚しないうちは砂川の権力を存分に利用出来るし、何かあっても母方の家名を守ることに尽力すれば、上手く立ち回れると踏んでいるのだ。場合によっては、砂川との関係以上に得られるものがあるとさえ考えている。
――食えない『狸』だ
 父の考えを読み取った時、りく也は胸のうちで唾棄した。
 砂川は初孫でもあるその娘を溺愛していた。日本有数の財閥の次期総帥夫人にと望まれて悪い気はしないはずだ。
「年始に鎌倉で茶会を開くことになってね、真理奈も出席する。君に会いたいと言っておったぞ」
 父の思惑通りに縁談は進みつつある。砂川は内内の行事で孫娘が同席する場合は、必ず、りく也に声をかけるようになった。
「日程をお知らせください。その日は空けるように致します。ですが僕は茶道の方はさっぱりで」
「何、わしもさ。隣にベテランを座らせるようにして、見よう見まねで毎回何とかしとるんだ」
 砂川の大らかな物言いは、見送りに出た周りの人間の笑いを誘った。りく也の位置から父の表情は見えないが、満足げだろうことが想像出来る。
 砂川の姿がエレベーターの中に消えると、それぞれまたパーティー会場に戻り始めた。
「私は挨拶をしたらこれで帰るが、おまえはどうする? 一緒に乗って帰るか?」
「いえ、もう少し残ります」
 りく也はさっさと父から離れた。
 大学を卒業後、アメリカでの留学を途中で打ち切って本社入りしたりく也は、それまで接触を避けてきた父と行動を共にする機会が増えた。後継者としての立場上、仕方のないことだったが、りく也は出来るだけその時間を減らしたかった。
 それに同乗すると、今夜、遅れた理由を聞かれるだろう。『中原さく也』と会っていて遅れたと知ったら、どう思うか。
 祖父江コンチェルンの後継となる条件として、実母と兄の生活の保障と自由に会うことを約束させていたが、マイナスに働くと判断したなら、そんな口約束、父が簡単に反古することはわかっていた。産んだだけの実母はどうでもいいが、さく也には絶対に手出しさせたくない。
 父が帰った後、時間を見計らってりく也も帰路についた。
 時計を見ると、午後十時半を少し過ぎていた。あれほど急かされてパーティー会場に来たものの、父のお目当ての砂川議員は派閥の会合と重なったとかで、姿を見せたのは九時を回った頃だった。彼が来るまでの間、りく也は様々な感情の入り混じった視線に晒され、辟易した。
――まだ寝てないよな?
 パーティー主催者が用意したハイヤーに乗り込み、携帯電話を触った。同じ日本にいると思うと、さく也に無性に会いたくなる。食事をするには遅すぎるが、飲みに誘えば付き合ってくれるかも知れない。静かなところで、さく也と話したかった。
「もしもし、俺だけど、もう寝てたか?」
 電話に出たさく也の声は、寝起きとわかる声だった。誘うに誘えない。
「いや、何でもない。今、『仕事』が終わったから、どうしているかと思っただけだ。ん? そうだな、少し疲れたかも。いや、まだ帰り道の車の中だよ。え? そりゃ、構わないけど、寝てたんじゃないのか? わかった、じゃあ、迎えに行くから外に出てくれ。十分くらいで着くよ」
 さく也の方から、気持ちを察したかのような「飲みに行かないか」との誘い。
 さく也は感情の起伏が乏しく、芸術を生業としているだけあって気難しく見られがちだった。整いすぎるほどの容貌が冷たい印象に拍車をかけ、思いやりの欠片もなさそうに誤解させる。しかし表情が出づらいだけで、人並みの感情はしっかり持っていた。芸術家だからこそ、むしろ感受性は人一倍強い。こうして、りく也の疲れた気持ちを汲んでくれる。
 過去の『恋人』で、その一面を知る者はどれだけいただろう。誰も彼も、さく也の容姿や、冷たい泉に喩えられる印象を愛した。さく也が相手のために起こした感情の波が、形になる前に先回りして打ち消し、自分達の愛情を示すことの方を優先した。そんな『彼ら』を、いつもりく也は馬鹿にしていた。上辺だけを見て、さく也の全てを知った気でいる『彼ら』が滑稽でならなかった。さく也の不器用な優しさの表現を知るのは自分しかいないのだと。
 だが――

『カノウさん』

 突然、甘やかな響きを含んださく也の声が、りく也の耳に甦る。
――どんなヤツなんだ? ここまで来させて、さく也を独りで放っておくなんて
 まだ知り合って間もないからだろうか?