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橋ものがたり〔第2話〕~恋心~

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 倅を失ってから、元々面倒見の良かったお民は更に世話好きになった。もしかしたら、他人の心配をしたり世話を焼いたりすることで、倅を失った哀しみを幾ばくかでも癒やそうとしたのかもしれない。実際、近くに捨てられていた捨て子の面倒を里親が見つかるまで見てやったり、同じ長屋に住む少女が父親を失った直後、再々泊めてやったりしたし、そんな身寄りのない子どもたちの世話をすることは、お民の心の隙間を埋めてくれた。
 兵太を失ってから、はや六年が経った。初めの頃は、兵助も自分もまだ若いのだから、もしかしたら兵太に代わる子を授かることができねかもしれない。そう思い、また何よりも願ったけれど、ついに子は授からなかった。
 兵助は三十を過ぎ、お民自身も二十七になった。多分、再び自分たちが子を持つことはないのだろう。最近は人の親となることは諦め、お民はいっそう世話好ぶりを発揮している。
 お民が暮らす長屋は徳平店と呼ばれており、江戸の外れにある。要するに江戸のどこにでも見かけられる粗末な棟割り長屋だ。こんな長屋に暮らす連中は大方はその日暮らしで、我が身の身過ぎ世過ぎがやっとという人間ばかりだが、その分、長屋の住人たちは互いらに助け合って暮らしていた。世話好きなのは何もお民に限ったことではなく、徳平店の女房連は皆、似たり寄ったりである。とはいえ、その中でもお民のお節介焼きは飛び抜けてはいた。
 お民と兵助は外見だけで言えば、本当に真反対である。小男で所帯を持った時分、既に鬢の毛が少なくて貧相な髷しか結えなかった兵助は、その頃から三十過ぎに見られていた。
 お民は女にしては滅多にないほど大柄で、最近は横幅も大きく―つまり太ったということだ―なってきた。器量もさして良いとはいえず、贔屓目に見ても十人並みといったとこだろう。
 しかし、似合いといえば、これほど似合いの夫婦もない。とにかく、朝から晩まで喧嘩ばかりしていて、大抵はお民の一方的な勝利に終わるのが常であった。兵助も果敢に抵抗は試みるのだが、いかにせん口達者なお民に最後はいつも言い負かされてしまうのだ。
 兵助が体格の良いお民に比べて、あまりに痩せているため、長屋の中には
―兵さんのところは、女房が一人で全部おまんまを食っちまってるんじゃねえのか。
 と、からかい半分に言う者もいたけれど、実のところ、喧嘩はしていても、お民が何より亭主を大切にしていることを知らぬ者はいない。
 五月に入って、陽が暮れるのも随分と遅くなった。日中はもう夏と言っても良いほどの陽気で、少し動いただけで汗ばむ。殊にお民のような肉付きの良い者は、じっとしていても、じっとりと汗が滲んできてしまう。
―それにしても、どうして、うちの人はああも痩せているのかねえ。
 お民はできるたけ滋養のつく献立を考えてはいるのだが、元々痩せている質なのか、兵助は所帯を持った頃から小食なのは確かであった。お民の食べる量の半分そこらがやっとというところだ。
 これからも、お民は兵助に長生きして貰わなければならない。兵太を失った哀しみから立ち直れたのも、良人のお陰だと思えば、尚更元気でいて欲しい。倅亡き今、お民の家族は亭主ただ一人であった。
 そんなことをつらつら考えているお民の耳を、威勢の良い声が打った。
「おい、何ぼんやりとしるんだ」
 途端に、お民の顔がほころんだ。
「お帰り。ごめんよ、つい考え事をしちまってさ」
「何だよ、何だよ。深刻な顔で考え事なんて、お前には似合わねえのにさ」
 その当の亭主兵助が破顔して立っていた・
 薄鼠色の着物を着ている様は、それこそ〝禿げ鼠〟のようだ(喧嘩した時、お民は時々勢い余って兵助をそう呼ぶことがある)が、大工としては熟練した職人で親方からも片腕として頼りにされていて、見かけにはよらない。そんな亭主が実は、お民には自慢なのでもある。
「言ったね。全っく、口の減らない男だよ」
 お民も負けずに言い返しながらも、身体は器用に動き、兵助のために、すすぎのための盥や手ぬぐいなどを手慣れた様子で準備した。
 お民の用意した盥で汚れた脚を洗いながら、兵助も応戦する。
「手前の方こそ、それが一日汗水垂らして働いた亭主に向かって言うことか?」
 いつもどおりの賑やかな光景だ。
「お前さん、今夜は鰻にしたよ。日中は急に暑くなっちまったから、こたえたんじゃないのかい。ま、せいぜい食べて、精をつけておくれよ。お前さんは、毎年、暑さにはすぐにやられちまうから」
 お民がこれは真顔になって言うと、兵助が笑った。
「おうよ。確かになぁ、こう暑くなっちまったら、息が上がっていけねえや」
「玄庵先生から貰った薬はちゃんと呑んでるんだろうねえ。持病持ちのくせに、薬を呑むのを億劫がるだなんて、あたしには信じられない話だけどねえ」
 兵助は若い頃から、心臓の持病を抱えている。町医者の狩納玄庵に言わせると、脈拍数が普通よりも何倍も多いため、少し動いただけで息切れがするらしいのだ。そのため、玄庵に処方して貰った薬を日に三度服用している。
 が、生来面倒くさがりの兵助は、この大切な薬を呑むのを忘れるのはしょっ中である。
狩納玄庵は若い頃は長崎で最新の和蘭医術を習得したという外科医で、もう白髪の老人だ。一人息子は何でも加賀藩の殿さまお抱えの御殿医だという。しかし、玄庵の方は至って飄々とした人柄で、貧乏人からは金も取らないし、夜中でもいつでも病人がいれば、どこにでも飛んでいくという無欲で、一風変わった医者だ。
 恐らく―兵助の食が細いのも痩せているのも、その病が無関係ではないのだろうと思う。
 とはいっても、お民にはこうして少しでも精の付くものをこしらえて食べさせてやるくらいしか、何もすることはできなかった。もっとも、折角こしらえても、兵助が食べられるのはせいぜいが半分ほどなのだけれど。
 兵助は脚を洗い終えると、畳に上がり、どっかりと腰を下ろした。
「おう、こいつは美味そうだな」
 そんな風に歓んでくれるのなら、せめてもう少し食べてくれれば良いのに。
 お民はそう思いながらも、笑った。
「可愛い女房のために汗水垂らして働いてる亭主のために、腕に寄りをかけて作ったんだよ」
 ちゃぶ台に並んだ心尽くしの夕飯を眺め嬉しげな兵助に、お民は笑いながら言う。
「おい、どこに可愛い女房がいるんだ?」
 兵助は冷やかすような口調で言い、早速箸を取り、鰻をつついている。
「お前さんの眼の前に、ちゃんといるでしょうが。お前さん、歳のせいでいよいよ眼まで悪くなっちまったのかね」
 悪気のない言葉の応酬ではあったが、これが全く普段の二人を知らない人間が見れば、凄まじい夫婦喧嘩をしているように見えるらしい。むろん、徳平店の人間には、毎度のこと、慣れっこになっている。
 いつもの調子で痴話喧嘩をしながら、賑やかな夕飯は終わった。これも毎度のことながら、いかにも美味そうに食べながらも、兵助の膳のものは半分ほどしか減っていない。
 向かい合ったお民の皿は空になっている。
 それでも良い、食べた分だけは、この人の元気の素になってくれるだろうから―、お民はそう思い、片付けのために立ち上がる。