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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(前編)

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女郎花(おみなえし)
 漢方では利尿剤として用いられる。秋の七 草の一つ。〝女飯〟が〝おみなえし〟に転 じたといわれる。
 花言葉―美人、九月五日の誕生花

椿
 花言葉―気取らない美しさ、誇り、控えめ な美点、女らしさ、慎み深い、魅力
 一月十二日、ニ月十四日、十二月十日の誕 生花
  (赤色)―高潔な理性、我が運命は君の  掌中にあり
 (白色)―控えめ、

金盞花(きんせんか・カレンデュラ)
 菊科の多年草、八月二十四日の誕生花
 花言葉(黄色)―悲歌、繊細な美


     【序章】

―前日も 昨日も今日も 見つれども
   明日さへ見まく 欲しき君かも―

 男が一人、庭を見つめていた。真紅に染め上がった無数の楓の葉が折り重なるように枝についている。その鮮やかすぎるほどの艶(あで)やかさは、いささか禍々しさすら感じるほどだ。
 はらはら、はらはら。風もないのに、赤く色づいた赤児の手のひらを思わせる小さな葉が舞い落ちる。
 こうして縁廊に座して庭を眺めるのが今の嘉宣(よしのり)の日課である。そう、これからあと何年生きるのかは判らないが、己れは日々、ここで庭に茫漠とした視線を向け続けるのだ。
 やがて、生命の焔尽きるその瞬間まで。
 橘(きつ)乃(の)とめぐり逢うまで庭など座ってゆるりと眺めたこともなかったし、また、眺めようと思ったこともなかった。彼の心はいつも己れの内側に向けられており、自分以外の存在―それがたとえ物であろうと人であろうと関係ない―に関心を払うことなどなかったのである。
 そういう意味において、橘乃は嘉宣の眼を外の世界に向けてくれたといえるだろう。
 不思議なものだ。こうして見ると、庭は刻一刻と変化しているのがよく判る。昨日までさほどに色づいていなかった葉が一晩明けて眼にしたら、見違えるほどに真っ赤に色づいていたということもないわけではない。
 橘乃と共に庭を眺めるようになって、嘉宣は初めて四季のうつろいを知った。桜の花片が舞う春の空気のしっとりとした潤みや夏の陽に照り映える緑の楓のきらめき、天人が刺繍を施したような秋の花々の彩り、更には穢れを知らぬ雪の真白(ましろ)な眩しさ。
 自然を眼だけでなく、匂いで、膚で触れ感じることを、あの女―橘乃が教えてくれた。
―こうしていると、橘乃、お前と共に過ごした焔のようなひとときが嘘のようだ。
 嘉宣は心の中でそっと最愛の女に呼びかける。あれはいつのことだったか、橘乃と二人でこうして廊下に座り、飽きることもなしに庭を眺めた。
 そういえば、あの日、庭には真紅に染め上がった紅葉だけではなく女郎花も今を盛りと咲き誇っていた。いや、咲き誇るという表現は、あの慎ましやかに咲く花にはふさわしくない。ひっそりと開くあの花には。
―私が女郎花を好きだと申し上げたのがそのように意外でございますか?
 確かに、あの女の言うとおりだった。
 派手やかな美貌を持つ橘乃には、春に咲く大輪の牡丹こそふさわしいと嘉宣には思えた。だから、庭の片隅でひっそりと花開く女郎花を好きだと言ったあの女に対して、意外そうな表情をして見せたに違いない。
 だが、今ならば、はっきりと言ってやれる。
 橘乃、お前はあの日、自分自身で言ったように女郎花に似ている、と。
 橘乃もまた、彼と同類だった。華やかな外見からはおよそ想像もつかぬほど大きく虚ろな闇を心に抱えていた。
 俺は、どうして、そなたのその心の闇や孤独に気付いてやらなかったんだろう。
 橘乃と一緒に庭を眺めるようになってからも、彼は相も変わらず自分一人のことばかりに気を取られていて、橘乃の心持ちなぞ、ついぞ気にかけたことはなかった。
 もう少し気をつけてやっていれば、橘乃を死なせることもなく、嘉宣は愛しい女を失わずに済んだかもしれない。他ならぬ彼自身が橘乃を死の淵へと追い込んだも同然だ。
 生きる手立ては他にたくさんあったはずだった。母をひたすら憎み続けてきた歳月に拘らず、愛する者たちとひっそりとささやかな幸せに身を委ねてゆけば良かった。憎しみは結局、憎しみしか呼ばない。
 憎しみを最後まで棄てられなかったことが、橘乃や我が子を巻き添えにしてしまった酷い結末を呼び寄せたのだ。たとえ橘乃に唆されたにせよ、嘉宣自身が誘惑に負けずに穏やかな幸せの中で生きることを選んでいれば、橘乃や彼の運命は全く違ったものになっていただろう。
 だが、現実として、彼は女を守ってやれなかった。
 俺は惚れた女一人、守ってやることのできぬ不甲斐なき男よ。
 そんな自分には、ここを終(つい)の住み処(すみか)として静かに一生を終えるのがいちばん似合うのだろう。
 嘉宣の横顔は存外に若々しい。まだ隠居所に住まうには、いささかどころか、かなり早いと思われる歳であることを物語っている。
 それでも、この小さな寺で半ば押し込められるようにして暮らし始めてから、既に六年が経とうとしている。
 嘉宣は小さく息を吐き出すと、もう一度頭上を振り仰ぐ。朱(あけ)に染まったたくさんの葉が晩秋の薄蒼い空を覆い尽くしている。こうして紅葉に見入っていると、あの日―橘乃と並んで庭の見事な紅葉を眺めた一瞬に己れが戻ったのかと錯覚しそうになる。
 嘉宣はそこでハッと我に返った。頭上高く百舌の鋭い啼き声が響き渡り、彼は唐突に現に引き戻される。ゆっくりと周囲を見回しても、彼の他、人と呼べる者は誰もおらず、庭に女郎花は咲いていない。
 橘乃が好きだと語った花が見当たらないことが、やはり、これは紛れもない現実なのだと彼に迫ってくる。六年前の橘乃が生きていたあの日ではなく、彼女がこの世を去ってしまって既にいない今だということを思い知らされる。
―嘉宣さま、橘乃はいついつまでも嘉宣さまをお慕いしておりまする。
 最後の別れの間際に橘乃が遺したひと言が耳奥に甦る。
 その時、一陣の風が吹き渡り、身の傍を駆け抜けていった。風が冷たい。
 もう冬が近いのだと季(とき)のうつろいが告げている。ゆらゆらと当て処なく漂う楓の葉を眺めながら、嘉宣はかすかに身を震わせた。
 風が樹々の間を渡ってゆく。その音に時折、鳥の声が混じる。
 嘉宣は彼が生涯でただ一人愛した女の面影を瞼に浮かべながら、樹々を渡る風の音にいつまでも耳を傾けていた。

     【壱】

 陽光が燦々と降り注ぐ庭に向けた眼をわずかに眇め、嘉宣は人知れず吐息をつく。
―全っく、人をこれほど待たせても平気なのは、やはり血筋なのか。
 嘉宣の脳裡に、ある女人の貌が浮かぶ。いつでも白粉の匂いを胸が悪くなるほど辺りに撒き散らし、自分を中心にこの世のすべてが回っていると勘違いしている愚かな女。
 思わず三万石の小藩とはいえ、一国の藩主にあるまじき品の悪い悪態をつきそうになり、嘉宣は慌ててその科白を呑み込んだ。
 ふと視線を巡らせると、部屋の床の間に大ぶりの壺が置いてある。その美濃焼の重厚な花器に活けられた黄色の花が眼に入った。鮮やかな、眩しいほどの黄色に何故か強く惹きつけられた。