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我的愛人 ~涙あれども語り得ず~

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流転①



「皇后様は一体どうなるのでしょう?」
 共産党が組織する八路軍に身柄を拘束されていた私は、軍が突然北満に移動することと知り慌てました。
 終戦後、夫溥傑と離ればなれとなり、婉容皇后を始め皇族たる愛新覚羅家の一族共々、娘の嫮生と流転の日々を送ってきた私、嵯峨浩は、婉容皇后の行く末が心配でたまりませんでした。
 私達が終戦を迎えた大栗子──ここで日本へ亡命するはずの皇上と夫溥傑と別れ、さらに臨江、通化、長春、吉林、延吉、と八路軍に囚われたまま続く長く辛い漂泊の旅。共にいた家族も一人また一人と減ってゆき、今では私と嫮生と皇后様を残すのみ。重度の阿片中毒と禁断症状、さらには心労が重なって既に廃人となりかけている皇后様を八路軍は見捨てないだろうかと、気になるのはそのことばかり。

「なに、心配することはない。あれに乗せてゆくから」
 八路兵は門の入り口に停まっている立派な馬車を指さしました。その言葉を聞いて私はほっと胸をなでおろすと同時に、これからの移動のことをお伝えしようと、コンクリートの倉庫へと急ぎました。もう既にご自分では食事を摂ることも排泄をすることも出来ず、あまりの異臭を放つというのでそんな場所に隔離収容されている皇后様。仮にも一国の皇后であったはずなのに、何と言う酷い扱いなのでしょう。時代というもの、戦争というものは本当に恐ろしい。それまでの価値観がまるっきり変わってしまうのですから。

「皇后様、また移動することになりました。でもご心配なさいますな。私達はいつもご一緒でございますよ」
「だれか、だれかおらぬのか!」
「私がここにおります」
「ボーイ、チョコレートをもってこい」
 むっとするような臭気の中、皇后様は隅にじっとうずくまって虚ろに視線を彷徨わせています。視点は定まらず宙に地に迷い、御髪とお召し物も乱れ汚れ放題。なんとか整えようと手を伸ばすと、ぴしゃりと容赦なく払いのけられてしまいます。
「さあ、もうすぐ出発です。ご用意を」
 そう申し上げても理解することはできず、ただただ、駄々っ子のように暴れまわるばかり。やせ細って骨と皮だけとなったその腕のどこにそんな力を隠し持っていたのか、皇后様は半狂乱で私を罵り力ずくで倉庫から追いやろうとなさるのです。
「どうか皇后様、お気をお鎮めになって」
 騒ぎを聞きつけてきたのか、幾人かの八路兵が倉庫の中へと入り、皇后様と私を引き離しました。二人がかりで押さえつけられている皇后様はもはや興奮状態で手がつけられません。
「ここはいいから、早く行くんだ。もう出発するぞ」
「皇后様……皇后様……!」
 思わず声を荒げてしまった私も八路兵に腕を掴まれ強引に倉庫の外へと連れ出されました。嫌な予感が絶えず私に圧し掛かかり、後ろ髪を引かれる思いで何度も何度も振り返ると、皇后様の切ないまるで絹を引き裂くような叫びが辺りに響き渡りました。

「顕㺭、顕㺭! 私ずっと待っているわ!」
 正直私は皇后様が一瞬正気に戻られたのかと思いました。それほど確かな濁りのない鮮明な声だったからです。けれどそう思ったのもつかの間、次の瞬間にはご自身を取り押さえる八路兵に向かって、聞いているのも恥ずかしいほどの暴言を吐く怒声に変わりました。記憶と意識が混濁しているにも関わらず、皇后様があんなにはっきりと口にした名前。
 顕㺭とは一体どなたなのでしょう。
 よほど信頼のおける人物だったのでしょうか。男性なのか女性なのか。どちらにしろ顕㺭という人物が皇后様にとって大切なお方であったことは確かに違いありません。
 日満一体となるために、私がこの満洲の地に嫁いできた当時から阿片に溺れていらした皇后様。決して親しくお近づきになることはなかったけれど、私にはとても気になる存在でした。皇上との確執、日本軍との不和。孤立し気が遠くなりそうな孤独を耐え忍び、一体を何を考え何を想って生きていらしたのか? 
 長年疑問に思っていたその答えが、今ほんの少しだけ提示された気がしたのでした。