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夢の唄~花のように風のように生きて~・弐

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「いつもありがとうよ、お千香ちゃんの卵焼きは美味(うめ)えからなあ。実を言やァ、俺はガキの時分から卵焼きが大の苦手だったんだが、お千香ちゃんの弁当を食べるようになって、好物になっちまったよ」
 破顔する徳松に、お千香は微笑んだ。
「それは良かったわ。じゃあ、これからも頑張って、どんどん徳松さんの苦手な物をなくさないといけないわね」
 徳松は、そんなお千香を眩しげに眼をしばたたかせて見つめた。
「な、お千香ちゃん」
「なあに?」
 時折ハッとするほどの艶麗さを見せるかと思えば、こんな少女のように無邪気な表情を見せるお千香であった。健気に生きようとしているその一生懸命な姿がいじらしい。
 小首を傾げるお千香を、徳松はふいに抱きしめてやりたくなった。だが、お千香との誓いを破りたくはない。
 何より、分別のない獣のような男だとは思われたくなかった。
「俺と―所帯を持っちゃくれねえか」
 「え」と、お千香が眼を瞠った。
「その、何だな、俺はお千香ちゃんのこしらえた卵焼きをこれからもずっと死ぬまで食べてえんだよ」
「徳松さん、私」
 言いかけるお千香に、徳松は真顔で首を振った。
「良いんだ、返事はゆっくりと考えてからで良い。ただ、俺の気持ちだけはちゃんと伝えておこうと思ってさ」
「ありがとう、徳松さん」
 嬉しかった。涙が出るほど嬉しかった。
 好きな男にこうも直裁に告白されて、こんなに嬉しいものだと考えたこともなかったのだ。
「何だよ、求愛をしたのに、礼を言われるってえのも妙だよな」
 徳松は照れたように笑った。
「じゃあ、行ってくるよ」
 片手を軽く上げ、いつものように家を出てゆく徳松をお千香は三和土に佇んで見送った。
 お千香はぼんやりとして、上がり框に腰を下ろした。徳松の気持ちは心底嬉しい。お千香もまた徳松に惚れているのだ。両想いだと判った今はなおのこと、幸せな心持ちになれるはずだった。
 しかし、お千香には気がかりがあった。お千香には現在、定市という良人がいる。手込めにされた翌朝、まだ熟睡している定市の傍から逃げるようにして美濃屋を出た。
 あそこにいれば、これからもずっと定市にあんな目に遭わされるかもしれない。それは考えただけでも怖ろしいことだった。定市に二度と触れられたくない。あんな辛い想いをしたくない、その一心で身体の節々が痛むのに耐えて、美濃屋を出てきたのだ。
 とにかく定市から少しでも遠くへ逃げたかった。夢中で歩いている中に、気が付いたら江戸の町の外れまで来ていた。そこで疲れ切って、意識を手放してしまったのだ。そして、次に目覚めたときには、徳松の家にいた―。
 たとえ美濃屋を出たとて、お千香は人別帳では定市の女房として名前が記されており、美濃屋の内儀であることに変わりはない。徳松には我が身の身の上について何も話してはいなかった。それでもなお、徳松は何も訊こうとはせず、お千香を家に置いてくれたのだ。
 こんな状態で、徳松と所帯を持つことは難しい。それに、定市にさんざん穢されたこの身体では、大好きな徳松に申し訳ないという想いがあった。恐らく徳松は、お千香が犯されたという事実を知っているに相違ない。徳松のことだから、そのことについて一度たりとも触れたことないけれど、初めて徳松の家で目覚めた日、徳松の口ぶりでは明らかに知っているようだった。
 もう一つ、お千香の身体の秘密がある。これについも多分、徳松は知っているだろう。徳松はお千香を診察した医者の話をすべて聞いていると話していた。男でもなく女でもない―、思いがけず定市が父政右衛門の遺言を破ることになり、お千香は初めて自分が男と夫婦の契りを結べることを知った。
 だが、こんな不完全な身体で徳松の妻になっても良いのだろうか。そんな戸惑いがあるる。
 お千香の眼に涙が溢れた。
―こんなに好きなのに。やっと大好きな男にめぐり逢えたのに。
 半年前のあの夜なんて、消えてなくなってしまえば良いのにと思った。大店の娘になんて生まれたくなかった。男でも女でもない我が身を昔は化け物のように思って、ひたすら恥じてきたのだ。徳松にふさわしい、ちゃんとした普通の娘に生まれていれば、こんなにも迷うことはなかっただろう。
 お千香が涙に濡れた眼をあてどなくさまよわせた時、細く開いたままの表の腰高障子が力一杯引かれた。
「徳松さん?」
 お千香の顔が歓びに輝いた。
 が、次の瞬間、現れた男を見て凍りついた。
「―」
 お千香は無意識の中に後ずさった。
 何故、定市がここに? お千香がここにいることを知ったのだろうか。
 お千香の顔に怯えの表情が浮かんだ。
 真っすぐ無表情に見据えてくる定市の眼を怖いと思った。
「お千香、随分と探したんだぞ? さあ、一緒に帰るんだ」
 手を強く引かれ、お千香は烈しく首を振った。
「い、いや。いやです。私はもう美濃屋には帰りません」
 全力で逆らってみても、逞しい定市には到底叶わない。ずるずると引きずれられるような形になり、お千香は悲鳴を上げた。
「止めて、私はもうあそこには帰らないと決めたんです」
 定市が烈しい眼でお千香を睨んだ。
「お前、私からは逃げ出したくせに、他の男になら抱かれるっていうのか?」
 冷たい眼、乾いた声。何もかもが定市の憤りを表しており、お千香はそれが怖くてたまらなかった。
「違います、徳松さんは、そんな男(ひと)じゃありません」
 それでも勇気をかき集めて言った。自分だけなら良い、徳松までをも侮辱されるのは許せない。
「私はお前を許さねえ。これから帰って、その身体に自分がどれほどのことをしでかしたのか思い知らせてやる」
 定市が憎々しげに言った時、背後で叫び声が上がった。
「止めろッ」
 徳松が仕事道具の入った大切な道具箱を放り出して、定市に飛びかかった。
「お千香ちゃんは嫌がってるじゃねえか」
 徳松の中に言いしれぬ怒りが湧いた。
―こいつが、この男がお千香ちゃんを手込めにした恥知らずなのか!
 生娘をあれほどまでにいたぶり、さんざん慰みものにした男なのか。
 弾みで定市がお千香の手を放し、その隙にお千香は急いで逃れた。
「待て」
 定市がもの凄い形相でお千香を追いかけようとするのを、徳松は両手をひろげてその前にたちはだかった。
「これ以上、お千香ちゃんを苦しめるのは止めてくれねえか」
 徳松の言葉には懇願するような響きがある。
「この女は私の女房だ。亭主が女房をどう扱おうと、他人のお前に指図される筋合いはねえ」
 定市が傲岸な態度で言う。
 徳松は定市を憐れむような眼で見た。
「それほどまでに惚れてるなら、何でもっと大切にしてやらねえ? 女に惚れるのと、手前の欲望だけで女を手込めにするのとは訳が違うぜ」
「そんなきれい事がよくも言えるものだな。どうせ、お前だって、お千香を抱いたんだろう? この私がさんざん弄んで手込めにしてやった女を歓んで抱いたんだろう」
 定市の言葉は容赦なくお千香の心を打ちのめした。
―さんざん弄んで手込めにしてやった女―。
 蒼白になったお千香を、徳松が気遣わしげに見た。
「良い加減にしろよ。当人の前でよくもそんな科白が言えたものだな。あんたは本当に人間の屑だ」