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夢の唄~花のように風のように生きて~・弐

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ありったけの力を振り絞って、定市から逃れようとする。だが、定市の力は強く、振り切ろうとしても、逆に手首を掴まれた箇所は力が徐々に加わっていて、痛みを感じるほどになっている。
―いやっ。
 お千香は叫んだ。
 その刹那、誰かが呼ぶ声が耳を打った。
「おい、しっかりしろ」
 聞き慣れぬ声だ。お千香はゆっくりと眼を見開いた。と、見たこともない男の顔がふいに飛び込んできた。だが、お千香の眼に、見知らぬはずの男が定市の顔と重なった。
 お千香の黒目がちの大きな瞳に、烈しい怯えの色が浮かんだ。
「いやーっ」
 叫んで逃げ出そうとするのを、徳松が後ろから抱き止めた。
「放して、いやっ」
 お千香は余計に恐慌状態に陥った。
「そんな身体でどこへ行こうってえんだ?」
 徳松が優しく言い聞かせてみても、なおもお千香は懸命に泣きながら抵抗を続けた。
「大丈夫だよ、俺はお前に何も危害を加えたりしねえから」
 根気よく言い聞かせて待つ中に、お千香は次第に泣き止んで落ち着きを取り戻していった。
「ごめんなさい、私―、折角親切に助けて頂いたのに」
 お千香はうなだれて言ったが、そのか細い身体はまだ小刻みに震えていた。
 徳松は今までにこれほどの怯えようを見たことがない。何がどうして、ここまでこの娘を怯えさせたのか。考えたくもないことだが、娘をこれほどに怯えさせているのは、娘がその身体に受けた酷い傷跡と無関係ではないだろう。
 徳松の耳奥で、相店の老医者伊東竹善の科白がありありと蘇る。
 娘を裏店まで連れ帰った徳松は、すぐにその脚で竹善を訪ね、一緒に来て貰った。竹善は娘をひととおり診察した後、徳松に語ったのだ。
―可哀想に、まだ生娘の身で、さんざん男に責め立てられたんじゃろう。
 竹善は娘の身体に残った陵辱の酷たらしさについて憤りを禁じ得ないように言った。
 娘の身体には、あちこちに愛撫の名残があったが、殊に烈しいのは下半身であった。幾度も容赦なく貫かれたせいで、滅茶苦茶になっているというのだ。
―皮膚は避け、血が流れておった。当分はかなり痛むはずじゃ。完治するのにはひと月はかかろうて。
 また、竹善は娘が完全な女性の身体ではない―とも言った。
―中性体、古くは仮半性陰陽とも申すが、極めて珍しいものだ。わしも六十年町医者をして、様々な患者を診てきたが、本当に見るのは初めてじゃよ。
 徳松は竹善の言葉を改めて思い出して、暗澹たる気持ちになった。
 その合間に、娘が床の上に身を起こしていた。
「本当にありがとうございました。ご恩は忘れません」
 育ちの良さを窺わせる丁寧な物言いで礼を述べると、娘は立ち上がろうとする。が、その瞬間、顔をしかめた。多分、下半身の傷が痛むのだろう。
「まだ無理だよ、医者は―」
 徳松はそこで、はたと口をつぐんだ。何と言って良いものか思案した。身体の、殊に下半身の傷について、明らかに陵辱された跡があったということには触れない方が良いと判断する。あからさまに告げるわけにはゆかないので、言葉を慎重に選びながら続けた。
「身体の傷が癒えるまではまだひと月はかかると医者が言ってたから、それまでは安静にしてねえと」
 その言葉に、娘がハッとした表情で頬を赤らめた。身の置き場もない様子で顔を伏せた。
「いや、その―」
 話題が話題だけに、徳松もまた、真正面から娘の顔を見ることができず、狼狽えて視線をあちこちにさまよわせた。
「俺は徳松、大工をしてる。見てのとおりの貧乏長屋だけど、お前が居たいだけ、ここに居たら良い」
 娘は弾かれたように顔を上げた。
 その可愛らしい面に警戒するような表情が浮かぶ。小動物が獣から必死で身を守ろうとするかのように身構えている。
 徳松はできるだけ優しそうな笑顔に見えることを祈りながら、笑顔をこしらえて言い聞かせた。
「さっきも言ったように、俺はお前に指一本触れやしねえ。ここに来る前は、さぞ怖い思いをしたんだろうが、俺は間違っても、そんな真似はしねえから、安心して、いつまでもいてくんな」
 一方、お千香は眼の前の男の言葉を俄には信じられないでいた。
 定市にあれだけの酷い仕打ちをされた後ゆえ、すぐに徳松という若い大工を信じられなかったのも無理はない。
 お千香は小さく首を振った。
「でも、このままずっと居候させて頂くというわけにもいきません」
 それでは、あまりにも厚かましい。見ず知らずの他人の家に、しかも若い男の家に上がり込んでそのまま住み着いてしまうなんて、お千香の常識の枠をはるかに越えている。
「それじゃア、こうしちゃあどうだい。お前には三度の飯の支度を頼むよ。その代わりに、お前は堂々とここにいられる。それで手を打とう」
「徳松さん―」
 熱いものが込み上げてくる。しかし、この涙は定市の仕打ちの数々に対して流したものとは異なり、嬉し涙であった。
 こんな男も広い世の中にはいるのだろうか。見返りも下心もなく、大らかな心で包み込んでくれる春の陽だまりのような男もちゃんといるのだ。
 お千香の頬を涙の雫がつうっと流れ落ちた。
「あれ、俺、何か泣かせるようなことを言っちまったっけ」
 徳松が素っ頓狂な声を上げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 泣くまいと思っても、涙は止まりそうにない。徳松が慌てる傍で、お千香は嬉し涙を零した。

 徳松との日々は、お千香の傷ついた心身を癒やしてくれた。実のところ、あの日、徳松には出てゆくとは言ったものの、少し身体を動かしただけで身体中に痛みが走り、歩くのさえ覚束ないほどだったのだ。殊に、下半身の痛みは烈しかった。割けた皮膚が悲鳴を上げ、引き攣れたような痛みが始終やわらぐことはなかった。
 それでも、日が経つにつれ、その痛みも少しずつ薄らいでゆき、伊東竹善の診立てどおり一ヶ月経つ頃には、ほぼ治まっていた。お千香は、いつしか徳松にひそかな想いを寄せるようになっていた。
 徳松の二親は早くに相次いで亡くなったという。両親の死後、徳松はこの裏店に一人住まいをしていた。
 毎朝、仕事に出かける徳松を見送り、留守の間に洗濯や掃除を済ませる。いつしか食事だけではなく、それらの雑用もお千香が引き受けて、こなすようになっていた。夕刻、徳松が帰ってくるまでに夕飯の支度を整えておく。そして、帰ってきた徳松と二人で小さな飯台を囲んで、ささやかな夕餉を取るのが常だった。
 徳松は優しい、男気のある男であった。約束どおり、お千香に指一本触れることはなく、眠るときでさえ、二人は徳松が古道具屋で買ってきたという小さな衝立を挟んで、布団を敷いた。
 そんな中で、いつしか芽生えた信頼は徐々に恋心に変わった。徳松の方は言わずと知れた―、ひとめ惚れであった。お千香を何とかして幸せにしてやりたい、何ものからも守ってやりたいという想いは日々強まるばかりであった。
 だが、運命の歯車は再び音を立てて回り始めていた。平穏な日々が終わりを告げようとしていた。
 徳松と共に暮らすようになって半年が過ぎようとしていた。暑い夏が終わり、江戸に秋風が立つ季節になっていた。
 ある早朝、徳松が仕事に出かける前のひとときであった。お千香がこしらえた心尽くしの弁当を徳松に渡した。