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我的愛人  ~顕㺭和婉容~

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第八章



 お母様、顕㺭は日本になど行きたくありません!
 そんな事を言っては駄目よ。今日からあなたは日本の子、川島芳子となるのだから。
 いやだあ! 日本に行くのはいやだあ!
 ほらほら、泣いて駄々をこねてはいけません。せっかくの白いリボンが台無しですよ。いい子ね、顕㺭。私の可愛い顕㺭……どうか日本に行っても元気でね……! 

 母の温かい手がいつまでも泣きじゃくる自分の頭を優しく撫でてくれる。優しくいつまでもいつまでも……。

 璧輝はふと目を覚ました。
 いつも見るあの夢の、いつも同じ所で目が覚める。とうの昔記憶の彼方に押しやった思い出が夢という形となってふいに現れる。今でも確実に思い出すことができる、あの日の母の涙に濡れた顔と懐かしい手のぬくもり……。
 その母の掌が今自分の髪に触れたような気がした。
 朦朧とした意識の中、自分が今どういう状況下にいるのか、璧輝は一瞬理解出来ずに必死に記憶を手繰り寄せる。割れるように痛む頭、灼熱の重くてだるい身体。撃たれて、必死に皇后陛下をここに連れてきて、半狂乱になったあの方を鎮めてそして……自分の背中を滑る細い指の優しい感触……。
 ──そうだ皇后陛下!
 慌ててベッドから飛び起きようとしたその時、肩に鋭い激痛が走った。

「駄目よ、じっとしていて」
 そんな璧輝を制するように温かい手が背中に触れた。閉じられたカーテンから幾筋もの陽の光が射しこんでいる。浅い眠りだったのかとゆっくりと顔を反対側に向けると、視界に入ってきたのは心配そうに自分を覗きこむ婉容の顔。
「もう大丈夫。お医者様が手当をして下さったわ。お疲れだったのね、貴方ほぼ丸一日眠っていらしたのよ」
「丸一日! その間ずっと皇后陛下がお傍に?」
「そうよ」
「申し訳ございません。私の為に……」
「あらそんなこと当然だわ。だって貴方は私を庇ってこんな大怪我をしたのですもの」
「甘粕は?」
「来たけれど、追い返してしまったの」
「何故? 皇后陛下の御身はこれから彼がお護りすると……」
 唖然とする璧輝を余所に婉容は静かに、けれど毅然として頭を振った。
「金璧輝、私は貴方でなければ嫌よ。あの日本人、今すぐにでも私をここから連れ出そうとしたけれど、貴方を見捨てていけるわけがないでしょう?」
「私の事など構わず、皇后陛下は一刻も早く宣統帝の許に行かなければ……」
「いいえ。私あの失礼極まりない日本人に条件を付けて言ってやったの。貴方が完治して私を旅順へ連れて行ってくれるのなら……それなら私は言う事をきくわ、と」
 婉容は熱の引かない璧輝の額の汗をタオルでそっと拭い、再び髪を優しく撫でつける。
「貴方が治るまで私がずっと傍にいてさしあげてよ。それと……」
 撫でていた手を離し両手を自分の膝の上に重ねると、婉容は子供のようにちょっと困ったような顔をして小さく頭を下げた。
「昨日は取り乱したりして悪かったわ」
「もったいないことを……どうか顔をお上げください」
 璧輝はまたも傷を負っていることを忘れ、慌てて身体を起こそうとする。
「ほらほら駄目よ、急に起き上がったりしては傷が開いてしまうわ」
 婉容は優しくたしなめ、ゆっくりと立ち上がると、璧輝の上半身を抱きかかえて枕をクッション代わりに背中に挟んで寄り掛からせる。璧輝の血と汗で汚れた衣服はきちんと取り替えられていて、その代わりに清潔なバスローブを身につけていた。
「着替えも皇后陛下が?」
「そうよ。だってあのままでいさせるわけにはいかないし……かなり手こずったけれど、女同士だから別に構わないでしょう? さあ、包帯を交換するわね」
 婉容は璧輝の背後に回り込んでバスローブを右肩だけ脱がせ、固く巻かれた包帯を慎重に解き始めた。

「痛いけど、我慢してね」
 包帯を総て解き、創口にあてがわれていた血で赤黒く滲んだガーゼも取り除く。軍医が婉容の為に置いて行った、手当の道具一式の中からピンセットに真綿を挟んで消毒薬を染み込ませると、恐る恐る璧輝の銃創に当てた。
 激痛に耐える璧輝の身体が瞬時に緊張で強張り、細いうなじと白い肩が小刻みに震えている。血はまだ完全には止まっておらず、その創口はじくじくと生乾きの醜い様相を曝している。婉容は璧輝の痛みを少しでも軽くさせようと手早く消毒を終えて、真新しい清潔なガーゼを当てる。軍医の施した包帯の巻き方を記憶の中で組み立て再現しようとしているその表情は真剣そのもの。額にうっすら汗をかいて解けないようにと、包帯を巻く両手に力を込める。

「緩いところがあったら言って頂戴」
「平気です。皇后陛下は意外と力がおありになるのですね」
「そんな憎まれ口を叩くのだったら、もう大丈夫」
 背後の婉容が小さく笑った。
 そして流れる沈黙。
 手当に必死な婉容とは裏腹に、璧輝は自分を襲う、痺れるような感覚に驚きと困惑を感じていた。全身を貫く激痛と相まって、自分の肌を強く優しく自在に滑る婉容の細い指、言葉を発する度に素肌に降りかかる熱い吐息。
 そしてあの夢の中の涙に濡れる母の顔と今ここにいる婉容の顔が瞬間一つに重なった。

「さあこれで大丈夫なはずよ。そうだわ、ちょっとお待ちになって」
 婉容は弾かれたようにベッドから立ち上がり客間を後にすると、大きな水差しとガラスのコップ、白く薄い紙袋を乗せた銀のお盆を持って戻ってきた。
「お薬よ、飲める?」
 そう言ってお盆をサイドテーブルに置き、紙袋の中から小さな包みを開けて渡す。白い粉末を口にして、璧輝は手渡されたコップの水を一気に飲み干した。
「もっと?」
 熱砂に滲み込む水のように、熱に浮かされた璧輝の身体は水分を欲して止まない。立て続けに二杯の水を飲んでぐったりと枕に寄り掛かった。

「少し唇の色が良くなったみたい。さっきまでまるで死人のように真っ青だったもの」
 ベッドの上に静かに腰を下ろして、美しく整った婉容の顔が穏やかにほころんだ。じっと璧輝を見つめる神秘な強い光を秘めた円らな二つの黒瞳、艶やかな深紅の唇。
「やっと笑顔になりましたね……」
 璧輝はその微笑に見惚れずにはいられなかった。
「お美しいと評判の皇后陛下……貴方様の護衛を仰せつかった時……正直に申し上げますが、お逢い出来ることを私は心中秘かに喜んでおりました」
「あら、随分お上手ね。でも実際逢ってみて幻滅なさったのではなくて? 気難しいし、暴れるし、高慢で我儘で……」
「想像通りの……いや、それ以上のお方でした。お美しいだけではなく、意志が強くお優しい。そして何より私の命の恩……」
突然、璧輝の唇を婉容の人さし指が塞いだ。
戸惑って言葉を失う璧輝に上目遣いの悪戯な眼差しを向け、その反応を楽しむかのように童女のようにくすくすと笑う。
「顔が赤いわ」
「きっと熱のせいです」
「さあ、もう余計なお喋りは身体に障るからお終いにしましょう」
 そんな無邪気な彼女を見て、秘しておくのが辛くなったのか、璧輝の口から思わぬ言葉が滑り出た。 

「満洲国」
「え?」
「最終的に皇后陛下の行き着く場所は此処、満洲の地に新たに建国される満洲国。その首都新京でございます」
「……」