小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

我的愛人  ~顕㺭和婉容~

INDEX|5ページ/15ページ|

次のページ前のページ
 

第四章



「金璧輝!」
 自分の身体の上からずるりと滑り落ち、微かな呻き声を上げて地面に崩れた璧輝を見て、婉容の喉の奥から自分でも信じられない程の絶叫が迸り出た。冷たい地面に沈んだ軍服の右肩がじわじわと赤黒く醜く滲みてゆく。
「しっかりして! ごめんなさい……私が走っていれば……転んだりしなければ……貴方がこんなことにならなくて済んだのに!」
 璧輝は自分を庇って撃たれたのだ。

 婉容は震える手で投げ飛ばされた自分のハンドバックを手繰り寄せる。追手は? あの中国人は? 痙攣の如く全身ががくがくと震え、体内を流れる血液が一滴残らず凍りついてしまったかのように流れを止める。後方であの甘粕が璧輝を撃った男に飛びかかり押さえつけようと必死に乱闘している。しかし彼の銃はあっけなく弾き飛ばされ、それでもかろうじて男を組み敷いているものの、ふいを衝かれて形勢逆転。今度は男が甘粕の上に跨ると、その銃で何度も何度も彼の頭を殴りつけた。

「くたばれ日本人! ここから、満洲から出ていけ!」
 甘粕の眼鏡が吹っ飛び、こめかみから出血しているのがここからでも分かる。彼はおそらく失神してしまったのだろう。男は彼が抵抗できないと悟ると銃口をぴたりと左胸に押し当てた。その形相はまるで悪鬼の如く。殺人と暴力の衝動に憑かれた異様な笑みを浮かべて引き金に指をかける。
「皇后陛下……はやく……車へ……!」
 腰から軍刀を引き抜いてゆらりと立ち上がった璧輝は、悠然と婉容に背を向けて立ち上がった。

「いやよ! そんな身体で……お願いやめて!」
 璧輝の背中に向かって婉容は力の限り叫ぶ。
「甘粕を見捨てるわけにはいきません……だから今のうちに行って下さい、早く!」
 強く荒い語気に婉容は思わず怯む。
 璧輝の軍刀を構える右手に力がこもる。それと同時に、紅い血液が灰色の地面に滴り落ちた。
 
 銃と軍刀──勝負は火を見るより明らかであった。
 璧輝は男に向かって走り出し、甘粕から気を引く為にその身体に向かって斬りつける。案の定、男は璧輝の攻撃を避けるために銃を盾にしてその軍刀の切っ先を受けると、素早く甘粕から離れ、今度は璧輝に襲いかかる。抵抗し、腕に力を込める度に傷口から大量の血液が流れ出る。どちらが上になり下になり、組み敷き組み敷かれ、そしてとうとう男が勝利の笑みを浮かべて璧輝に跨り、手にした軍刀を振り払って、その銃口を憎き眼前の敵の眉間に押しつけた。
「去死!」
 璧輝は最期の刻を知って固く眸を閉じた。
 そして三度目の銃声が、重く灰色の雲に覆われた大連埠頭に響き渡った。
 
 すべての時が止まったような数秒間。
 璧輝はゆっくりと眸を開けた。と同時に男が銃の引き金に指をかけたまま、白眼を剥いてどさりと地に崩れた。
 何が起こったのか分からぬまま、璧輝は肩を押さえて身体を起こす。顔を上げたその双眸に飛び込んできたのは、震える両手で自分の渡した拳銃を握り締め、自失呆然と立ちすくむ婉容の姿。
「……まさか貴女が?」
 彼女の放った銃弾は男の脳天を見事に撃ち抜き、頭蓋骨と脳味噌を粉砕していった。

「川島! 騒ぎになる前に早く皇后を!」
 追いついた別の日本兵の叫び声で我に返った璧輝は慌てて婉容の許に駆け寄る。
「お怪我はありませんか?」
 言いながら震える彼女の両手からそっと拳銃を取り上げた。
 婉容は璧輝の問いに答えるどころか、ショックのあまり目の焦点が合わず、まるで発作を起したように全身がぶるぶると震えている。璧輝は彼女の足元に落ちている自分の外套を素早く拾い上げ羽織ると、抱きかかえるようにして彼女を車まで連れて助手席へと押し込んだ。素早く運転席に座りハンドルを握って漆黒の車を走らせる。自分達を襲った二人の中国人密偵が既に冷たい亡骸となって、日本兵によって、まるで積荷のように無造作にもう一台の車に押し込まれているのが、走る車窓の片隅に見えた。哀れ、彼等にしても国への忠誠心にかけては自分と同じであろうに。

 同じ中国人同士でありながら皇后陛下まで巻き込んで何故こんなことを? 自分の行動は正しいのか? このまま日本人の言いなりになっていいのか? 
 自問する璧輝に、己に潜むもう一人の自分が答える。
 迷うな。すべては清朝復辟のため。その大願の前にあらゆる小事は犠牲にせねばならない。一介の国民党の密偵の命も、そして今隣に座っている何も知らない皇后とて同じ事。彼女の意思にかかわらず、何としてもこの方を満洲国執政夫人に祭り上げなければならない。たとえ今どんなに慙愧の念に苛まれようとも、後の壮大な勝利を思えばこそ、自分は日本人に協力し、関東軍から与えられた任務を遂行しなければならないのだ。
 璧輝は青白く血の気の失せた唇を噛み締め、アクセルをさらに踏み込んだ。
 車は猛スピードで大連ヤマトホテルを目指してゆく。