小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

我的愛人  ~顕㺭和婉容~

INDEX|4ページ/15ページ|

次のページ前のページ
 

第三章



 婉容の身体に戦慄が走る。ここで中国軍に捕らえられたら一体どうなってしまうのだろう? 不安と恐怖が突然心臓を鷲掴みにする。そして追い打ちをかけるように、船上からも応戦の銃声が立て続けにわき起こる。刹那、船体がバランスを崩して大きくぐらりと揺れ、婉容の身体は椅子から勢いよく投げ出されてしまった。
「皇后陛下!」
 床に叩きつけられる! そう思って固く瞳を閉じた瞬間、その身体は璧輝にしっかりと抱きとめられた。
 暗闇の中鳴りやまぬ銃声、飛び交う怒号。
 婉容の身体は小刻みに震え、ぐっと璧輝の胸に顔を埋める。
「捕まってしまうの?」
 心臓が押し潰されそうなほどの激しい動悸に息が苦しく、喘ぎながら問いかける。それに応えるかのように、恐怖に慄く婉容を抱き締める璧輝の両腕にさらに力がこもる。
「そんなことはありません。ご心配なさらずに」
 優しい声音が、頬に降りかかる吐息が、外套から伝わるぬくもりが婉容に軽い眩暈を起こさせる。早鐘のように打つ胸の鼓動は決して恐怖だけのものではない。暗闇の中、固く抱き合ったまま恐怖と甘美が入り混じったような切ない陶酔の時間がどれくらい経ったのだろう? 突如機関がうなりをあげ、船は猛スピードで岸から離れてゆく。遠ざかる銃声と怒号。再び訪れる静寂。船は中国軍をかろうじて振り切ったらしい。船室内に灯りが点き、婉容は漸く瞳を開けた。

「もう大丈夫です」
 耳元で囁く声にはっと我に返った婉容がゆっくりと顔を上げると、そこには自分を心配そうに覗き込む璧輝の優しい眼差しがあった。間近で見るそのきめ細やかな白い肌、微かに憂いを潜ませ、それでいて涼やかな目元は溥儀とはまるで違う。この世には男性でもこんなに美しい人がいるのかと、婉容は心の中で息を飲んだ。
「お怪我はありませんか?」
 形の良い唇から洩れた低い声に彼女は咄嗟に俯いて無言で首を横に振る。すると璧輝は優しく婉容を抱き起こして再び椅子に座らせた。
「驚かせてしまいましたね。皇后陛下はお疲れです。どうかしばらくの間お休み下さい」
 そう言うと璧輝は自分の外套を脱いでそっと婉容に掛けてやった。ふわりと鼻孔をくすぐる璧輝の香り。
 頬が赤く染まってゆくのが悟られないだろうか? この胸の高鳴りが聞こえてしまわないだろうか?
 必死に平静を保とうと婉容は再び窓の外に視線を移した。外は陸も海も空も境界の無い一面の闇の世界。未だ頬に残る璧輝の吐息の感触を感じながら、婉容はいつの間にか心地よい眠りへと落ちていった。

 汽船の大きな揺れにぎくりとして目を覚ました。気が張っていたのだろう眠りは浅く、その揺れにまたも中国軍との銃撃戦かと思ったのだ。
「お目覚めですか? ちょうど良かった。もうすぐ大連です」
 不安はその一言であっさりと取り払われた。船内はかなり冷え込んでいて、オーバーコートの上に外套を掛けられてもなお、うすら寒い。一晩中軍服でいた璧輝はもっと寒いだろうと、婉容は外套を脱ぐと「ありがとう」と低く呟いて璧輝に差し出した。
「下船したら外はもっと冷え込みます」
 璧輝はそう言って今度は婉容の肩にすっぽりとそれを羽織らせた。
「でも貴方が……」
「心配ご無用。さあ、到着です」
 璧輝に手を引かれ、甲板に上がる。待ち構えていた二人の日本兵が璧輝と婉容の後に続く。夜はすっかり明け、空を厚く覆う灰色の雲の切れ間からほんの微かな陽光が降り注ぎ、べたつく冷たい海風がまるでよそ者を嘲笑うかのように容赦なく
吹きすさぶ。婉容は唯一の荷物であるハンドバックを縋るように片手で抱きかかえた。

 ──これが満洲の玄関と謳われた大連なのね……。
 埠頭にはあまたの大型船が停泊していた。立ち並ぶ倉庫群、何台かのクレーンがその鋼鉄の長い首をせわしなく動かして船からの積荷を移動させている。正午近く、汽船は活気づいた埠頭へゆっくりと船体を近づけてゆく。
 完全に中国の支配権を離れた日本の租借地、大連。どんよりと重く気の滅入るようなくすんだ都市。それが今日生まれて初めて足を踏み入れる、この地に対する婉容の第一印象であった。

「出迎えが来ております」
 そう呟く璧輝の視線の先を追うと、岸壁に佇む日本兵五・六人の人影が見えた。
「中央の小柄な男が元憲兵大尉の甘粕正彦。ここから先は彼が皇后陛下をお護りいたします」
 一際異彩を放つ丸眼鏡をかけた人物が、後ろ手を組んでこちらを凝視している。
「では貴方とはここで……」
「お別れです」
 汽船は小さく揺れて埠頭に着岸した。
「お足もとにお気をつけ下さい」
 そう言って再度差し延べられた白い手袋をはめた璧輝の手。婉容は躊躇う事無くその掌を固く握りしめた。

「川島、御苦労だった」
 陸で迎える甘粕とその部下達。後方にはエンジンのかかったままの車が二台控えている。
「皇后陛下、長旅でさぞお疲れでしょう。この先は私甘粕正彦がお供させて頂きます」
 小柄な体型とは裏腹に、全身から滲み出る強烈な威圧感。流暢な中国語を駆使して律儀に頭を下げる彼の、自分に対して投げられた一瞥に、僅かな睥睨を含んでいるのを婉容は見逃さなかった。彼女は甘粕の挨拶に応えること無く、璧輝に手を引かれ押し黙ったまま下船した。
 そして婉容はいよいよ大連の地へと一歩足を踏み入れた。

「動くな」
 甘粕率いる部下の中の一人が凄んだ中国語と共に、おもむろに頭を上げた甘粕の後頭部にぴたりと銃口を当てていた。
「武器を捨てろ! さもないとこの男の命は無いぞ!」
 そしてもう一人の部下が他の日本兵に向けて銃を構えて威嚇する。
 国民党の密偵が二人も自分の配下に紛れていたこと、それに全く気付かなかった自分の迂闊さに、甘粕はうろたえ、そして苦々しく臍を噛んだ。
「早く皇后を連れて逃げろ!」
 叫ぶ甘粕。
「お前達日本人が満洲で何を企んでいるのか知らんが……そこの女、慕鴻皇后を渡してもらおうか」
 男は尚も甘粕の後頭部に銃口をぐいぐいと押しつける。
「溥儀もお前達の手に渡った。そして今度はその女。旧清朝の廃帝と皇后を拉致して一体何をしようといている?」
「やかましい! この支那人め!」
 
 一人の日本兵が腰から軍刀を引き抜き、甘粕に銃を向けている男の背後から勢いよく振りかかった。が、気配を感じて振り返った男の銃口から容赦なく銃弾が発射され、日本兵は呻き声一つ立てず即座に地面に沈む。その隙に甘粕は男から逃れ、素早く自分の拳銃を抜き、そして野太い声で璧輝に向かって叫んだ。
「あの車でヤマトホテルへ行け!」
「走ります」
 璧輝は乱暴に婉容の手首を掴むと全速力で走り出した。銃口は執拗に二人を狙い、甘粕はその後を追いかける。
「どうかあと少し頑張って下さい。あの車まで……あれに乗るまでもう少し……!」
 分かっている。分かっているけれども息が苦しく足がもつれ、とても璧輝に追い付けない。首を横に振りながら婉容はあえなくその場に崩れ落ちた。
「皇后陛下!」
 後ろを振り返る璧輝の視界の端に過ったのは、今まさに引き金を引こうとしている男の姿。
 そして一発の銃弾が瞬時に空間を切り裂いて、咄嗟に婉容に覆いかぶさった璧輝の肩を、灼熱の激痛と共に鋭く抉っていった。