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我的愛人  ~顕㺭和婉容~

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第十章



 一週間余が瞬く間に過ぎ、顕㺭の銃創は完治とまではいかないまでも、熱も引いてかなり自由に身体を動かせる状態まで回復していた。ホテルの部屋から一歩も出ることが出来なくても、二人はそれで良かった。いや、却ってその方が良かったのだ。誰にも邪魔されずに絆を深めることが出来たから。
「僕が男装している理由? それはたとえ婉容でも教えられないな」
 顕㺭の一人称が、改まった『私』から普段使っている『僕』へと変化していることでも分かる。寝食を共にして二人の親密度は日を追う毎に増していた。
「まあ、意地悪ね。私ったらその日本の軍服にすっかり騙されてしまって……」
「ちょっとまって、よく見て婉容。これは僕特製の軍服だよ。間違っても関東軍と一緒にしないで欲しいな」
 妙な所にこだわりを持つ顕㺭の意外な一面を見た気がして婉容は思わず笑ってしまう。
「あら……それは失礼。でもどちらにしてもとてもよくお似合いよ。でも旗袍を着た顕㺭もきっと素敵だと思うわ」
「それはどうも」
 穏やかな午後。リビングでルームサービスのコーヒーを飲みながら微笑みを交わし合う、束の間の平和なひととき。

「甘粕だ」
 それを突然打ち砕く、荒々しくドアを叩く音。二人は咄嗟に顔を見合わせる。不安気な顔で応対に出ようとする婉容を顕㺭は片手で制して代わりにドアを開けた。
「診察に来た。中に入れてもらう」
 横柄な態度は相変わらず。軍医と共にずかずかと室内に入ると、リビングで険しい顔をしてこちらを見ている婉容に会釈をする。
「ご機嫌はいかがでしょうか? 皇后陛下」
「最低よ」
 吐き捨てると、そそくさと診察の為に客間に行く軍医と顕㺭の後を追った。
 無言でその後ろ姿を見送る甘粕。しばらくしてテーブルの上の二客の飲みかけのコーヒーの入ったカップに気付くと、彼はそれをじっと見つめていた。

 15分程で手当が済み軍医を先に部屋から退出させると、甘粕は婉容に顕㺭と二人きりで話がしたいと申し出た。顕㺭もそれに同意するので、彼女は仕方なく独りリビングでやきもきしながら二人が客間から出てくるのを待つしかなかった。
「具合はどうだ?」
「順調この上ない。医者が言うには普通の生活をしても構わないそうだ」
 客間のソファに向かい合って座り、甘粕の問いに顕㺭は答える。
「そうか……それでは出立は明日の朝。もうこれ以上は待てん。それより、流石は川島。あの高慢な皇后に上手く取り入ったようだな。俺はすっかり嫌われたらしい」
 苦笑する丸眼鏡が窓から射す西陽を反射してきらりと光る。
「取り入ったなどと……ただ正直に言っただけだ。満洲国の執政夫人になるのだと」
 顕㺭は脚を組み換え、鼻で小さく笑った。
「あの日本人嫌いの皇后のことだから、面倒な事になると思って事後報告で済ますつもりでいたのだが……抵抗されなかったか? 自殺するとか外国に亡命するとか」
「いや、特に」
「皇后の身辺警護と護送役、これが今回の君の任務。その上説得まで無難にこなすとは、やはり軍の人選は確かだな。それはそうと、その身体で運転はできるか?」
「ああ……多分」
「では手筈通り、旅順の粛親王府へお連れしてくれ」
「わかった」
「そして君はその足で上海へ行き、次の計画を実行するのだ」
「了解」
「では成功を祈る」
 立ち上がり客間のドアに手をかけた時、甘粕は背を向けたまま小声でぼそりと呟いた。
「川島、大連港では助かった。礼を言うぞ」
 言い残して、足早に部屋を出て行った。
 わざわざ礼を言うなど彼らしい、と顕㺭は思った。数多く見知った日本人の中でも甘粕は彼女にとって唯一信頼のおける存在であった。清朝の王族という自分を、何かと利用しようとする関東軍の中にあって、彼ほど性差や人種を超えて利害抜きに対等に接してくれる者はいないからだ。
「今度は何時逢えるか……」
 顕㺭は甘粕の出て行ったドアを見つめて独り呟いた。

 顕㺭が客間から出てくると、待ちきれなかったとばかりに不安気な表情を浮かべて婉容が駆け寄ってきた。
「彼は何と言っていて?」
 一時凌ぎの嘘を並べ立てたとしても、この鋭い婉容には見抜かれてしまうだろう。そして何より隠し立てなどもう二人の間に必要が無いのだ。顕㺭はありのままを伝えた。
「明日の朝ここを発つ、と」
「……」
「旅順の……僕が幼い頃、日本に行くまで住んでいた家で宣統帝がお待ちかねだよ」
「そう……わかったわ」
 婉容の反応は意外にもあっさりとしたものだった。
「では今宵が最後の晩餐というわけね」
 婉容は努めて笑顔で言ったつもりであったが……あまりにも健気で痛々しいその微笑に顕㺭は応える術を持たなかった。

 その数時間後。夜も更け、バスルームから出てきた婉容は部屋の中がすっかり冷え込んでいるのに気づいた。ナイトガウンを羽織った火照る身体が一気に冷えてゆく。
「顕㺭、いるの?」
 返事は無い。婉容は怪訝に思いながら明かりの落とされたリビングへと向かう。するとすぐに部屋に充満する冷気の原因が判明した。寒風をはらんで大きく翻る白いカーテン。顕㺭がリビングの窓を全開にしてバルコニーに出ていたのだ。
「気は確かなのかしら?」
 婉容は呆れ顔でそっと近づいてゆく。これから真冬にかけて満洲の寒さは恐らくアジア一なのではないだろうか? ましてや深更。厳寒をものともせずに顕㺭は軍服姿のまま、バルコニーの手すりに片手で頬杖をついて遠く夜空を見つめていた。
 吹きすさぶ風に低い歌声が紛れて聞こえてくる。
 顕㺭が、あの顕㺭が歌を歌っている……?
 蒙古の言葉なのか、それとも自分ですらとうに忘れ果ててしまった満洲の言葉なのか。 
 婉容の知らない言語で歌われるその歌は、顕㺭の表情と同様に、もの哀しくやるせない。降り注ぐ銀色の月影に濡れ浮かぶ白い横顔。風に靡く黒い断髪、揺れる睫毛。男装などしていなければ、王女然とした相当に美しい姿であろうはずなのに。
 するとふいに歌が途切れ、その代りに唇から押し殺したような呟きが洩れた。
 
 ──家あれども帰り得ず
   涙あれども語り得ず……。
 そしてその何処か遠くを見据える眸から頬を伝って一筋の煌めく涙が零れ、吹きすさぶ風に無数の小さな珠となって千切れ飛んだ。
 婉容はその姿をじっと見つめたまま、まるで金縛りにあったように身動きができなかった。
 ……やはり彼女も同じなのだ。
 戻る場所もなく、共に涙を分かち合える相手もいない。自分と同じ、果てしなく恐ろしいまでの孤独に囚われている!
 こうして人知れず涙を流す顕㺭の暗い孤独の片鱗を垣間見て、固く閉ざされた心の盾の隙間を覗いてしまった瞬間、婉容の今まで無理やり心の奥底に閉じ込めていた感情が、顕㺭の涙に共鳴したかのように堰を切って溢れ出した。
「顕㺭!」
 婉容は堪らず走り寄って、力任せにその軍服の背中に思い切り縋りついた。