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我的愛人  ~顕㺭和婉容~

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第九章



 言わずと知れた満洲は女真族──後の満洲族の長となった太祖ヌルハチが、中国全土を手中に収め打ち立てた清王朝発祥の地。満人にとって心の故郷であるこの土地を、今や中国の人口の殆どを占める漢人がよもや間違ってもそのような言葉を発するはずがないのだ。況や日本人をや。
「貴方は誰?」
 婉容は璧輝を問い詰めるようににじり寄った。
「皇后陛下はなんて鋭い」
 璧輝は髪をかきあげ、少し照れるように苦く笑った。
「……隠していたつもりは無かったのですが……私は五歳の時に日本人に引き取られまして、普段は日本人として生活しております。日本名は川島芳子」
「だから日本に手を貸しているのね? それならそうと最初からそちらの名前を仰っていただければ、国民党の密偵だなんて疑わなかったのに……」
「申し訳ありません。皇后陛下は日本人がお嫌いと聞いておりましたので敢えて日本名を使いませんでした」
「そうだったの……」
「金璧輝という名は漢人風の名で、兄に倣って使っています。中国国内で活動する時はこの名の方が動きやすいので……そして……」
「そして?」
 心の奥底をじっと見つめるような婉容の視線に耐えられなくなった璧輝はそっと眸を伏せた。

「私の本当の名は愛新覚羅顕㺭(シャンツー)」
「愛新覚羅……皇上と同じ王族なのね?」
 婉容は低く呟いた。
「そうです、郭布羅婉容様。私は貴方様と同じ満洲族の人間。清朝王族粛親王の第十四王女として生まれました。宣統帝とは遠い従兄同士。その縁あって関東軍から今回の護衛の命を受けました」
 婉容は信じられないというように頭を振った。
「そんな……由緒正しい清王朝の王女が何故男のなりをして、日本人に加担しているの?」
 訊いた直後に婉容は自らの愚問を恥じた。返ってくる答えは分かり切っているはずなのだ。
「総ては復辟の為でございます」
 寝具を固く握りしめた婉容の手を、璧輝の燃えるように熱い両手が包みこんだ。
「私は亡き実父粛親王、並びに養父川島浪花の清朝復辟という悲願を幼い頃から一身に受け、私もそれが二人から託された自らの使命なのだと信じて生きて参りました。今回の満洲国の建国も、復辟への単なる布石として、関東軍に請われるまま工作活動をしているにすぎません。何故なら復辟の為には日本人の力が必要不可欠であり、大いに利用するべきだからです。」
 そして眸に確固たる熱い光を宿して璧輝は婉容を見つめる。
「我々清朝王族の宿願のためにも皇后陛下には是非とも国家元首夫人に就いて頂く必要がございます。そしてその先には必ずや復辟が成り、再び清王朝の皇后となられ、余りある自由と幸福を享受して頂きたいと、私は心から願っております」
 
 婉容は言葉を失っていた。
 一体、自分を新国家とやらに据える為にどのくらいの人間の血が流されそして死んでいったのだろう? 大連の埠頭で撃ち殺してしまったあの男。乱闘で命を落とした日本の兵士と中国人密偵。そして現に眼前にいる璧輝でさえ、自分の為に血を流し、大怪我をしているではないか。婉容はそんな彼女を目の前にしてとても言えなかった。自分は執政夫人などという役目はまっぴら御免、私の望む幸せは別にあると。普通の一女性として静かに穏やかにひっそりと暮らしてゆきたいと。
 
 璧輝は実父と養父によって刷り込まれた妄想と幻影の虜となって、ここまで全速力で駆け抜けて来たのだろう。そしてこれからも見えない最終目標に向かって虚しく走り続けるに違いない。
 婉容にとって塵ほどの重みを持たない清朝復辟というものが、眼前の男装の王女にとっては生涯を賭けた、為さねばならない重大な偉業なのだ。あまりにも一途で健気で危うい彼女。男装は自身の弱さと真の心を強固に護る盾なのだ。
 自分に注がれる璧輝の篤い献身に、婉容は正直戸惑いと憐れみを覚えずにはいられない。目的の為には自身の生命をも厭わず、身体を張って護ってくれた璧輝に対して、婉容が報いることのできる術は唯一つ。

「わかったわ……私は満洲国の執政夫人となるわ」
「皇后陛下……」
「日本が私に課す役割としてではなく、貴方が私に心からそう望むのであるなら」
「もちろんです!」
「……本当に其処には自由と幸福が待っているのね?」
「はい。争いの無い地上の楽園を目指すのです。清王朝の栄光を今再び宣統帝と皇后陛下、そして我々と共に!」
「貴方はまた私を護ってくださる?」
「お仕えできる時はいついかなる時も。たとえこの身がお傍に無くとも、私の心は常に皇后陛下のお傍に在ります」
 熱を持った璧輝の手がさらに熱くなってゆく。
「貴方をなんてお呼びしたらいいのかしら?」
「どうぞお好きな名前で」
 婉容は迷わず一つの名を選んだ。
 そしてこの昏い妄信に憑かれた彼女の心にどうか届くようにと、婉容は自らの気持ちを祈るように言葉にのせた。

「顕㺭は実の父上や義理の父上の望みを果たす為に存在しているのではないわ。もちろん、私の為でもない。人の命を奪ってしまった私が言うことではないけれど……どうか顕㺭、命を粗末にしないで。ご自分を大切にして。貴方は誰かの為にではなく、自分自身の為に在るのだから」
 顕㺭はじっと婉容をみつめる。
 今まで誰からも聞いたことの無かったその言葉。それが初めて婉容から放たれて圧倒的な力を持って顕㺭の胸に迫る。暫く無言で押し黙った後、彼女は自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
「私は私自身の為に在る……」
「そうよ。たくさんの顔と名前を持つ不思議な顕㺭……でも私の前では、日本人の川島芳子でもなく漢人を装う金璧輝でもない、偽りのない本当の貴方……愛新覚羅顕㺭でいてね」
 婉容の紡ぎだすさらなる言葉が、まるで天からの啓示のように、閉ざされた闇の中を疾走する顕㺭の心の裡──その遥か遠くに射すほんの微かな光となって瞬いた。