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佐崎 三郎
佐崎 三郎
novelistID. 27916
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『白鳥たちの湖』

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あれは静岡のホールでのことだ。仕込みの最中になにかまた理不尽なことを言いだした。わたしは無視した。その時、彼はわたしの胸倉をぐいと掴み、睨んだ。背も体型も左程変わらない人間に怖れなどない。その手首をぐいと抓み返し、ガムを噛んでいる歪んだ口元を見て、それから視線を上げてこう言った。
「なんだ。やれるものなら、やってみろ」
と言った。すると、彼よりも早くそれを見ていたMが、遠くのほうから、やれやれ!と囃したてた。そのほうをチラと見た彼は手首の力を抜いた。そして大人しく背中を向けて去っていった。Mが近寄って来て、なんだ、やればいいのに、というので、わたしは、めんどくせーな、あんな奴殴ったって、意味がないと言った。あいつの、日に日に白髪になっていく前髪の一部が、ずっと目に残っていた。

さて、大阪が最終地だった。出し物は「白鳥の湖」である。バレエの中のバレエである。最も壮大で最もセットも多く、仕掛けも見事である。第二幕のプリマの32回転の‘グラン・フィッテ’、王子と姫が湖に沈んでいくラストシーンのパノラマ背景の見事さ、なにがなんでもナンバー1である。その最後の公演の日が来た。緞帳の裏ではすべてのスタンバイが出来ている。幕開きは、生オーケストラで始まる。まずスタッフは、楽屋のマエストロ(指揮者)を呼びに行き、袖に待機させる。バレエ団の舞台監督は70歳のオバアサンである。だが誰よりもかくしゃくとしている。金髪でスカート、少し太めの身体だが、譜面を前にしたら、鬼の形相である。若いマエストロもカッコイイ。クールである。金髪の髪が逆毛立ち、まるでフェニックスのようだ。オバサマ監督と時を確認し、静かにうなずくと、コツコツと靴音が客席通路へ消えていく。5分前、会場の明かりが半分に落とされる。ふっと静まると同時に盛大な拍手が沸き起こる。マエストロの登場だ。目には見えないがわたしには見える。指揮台に立つやいなや、オーケストラもお客も居ずまいを整え、息を整えるため、軽く敢えて咳き込む。しばらくチューニングの音が響き渡る。みな白鳥を愛する人々だ。その段取りなど百も承知の助。どんどん静寂が収斂し、時間が止まったかと思う瞬間に、マエストロのクリーム色のか細骨のような棒が動く。始まった。オーヴァーチュアが奏でられる。緞帳裏は固唾を飲む。オバサン監督は使い古された分厚い譜面をじっと見ている。いつもそうしているように。何も不安はない。音を、音符を目で追いかけている。音がだんだん盛り上がる。オバサン監督の右腕がゆっくりと上がる。横にいる電動緞帳のスイッチマンが緊張しつつも正確に指を黄色く光るボタンへと移動する。音は正確に動き、大きな川が流れるようにその存在を表す。オバサン監督の右手がすくっと立った。息が止まったかのように何も動かない。そして、きっかけの音がすべての人の鼓膜を震わせて、心地よいタイミングで誰しも鳥肌立つタイミングを熟知した右手が空を切った。その動きだしで、スイッチが押されると連動して緞帳が速めのスピードでアップしていった。堰を切った大水のように、オーケストラの音塊が一気に舞台へ雪崩れ込み、世界は一つになった。

本番は終わり、今までと同じ作業工程を冷静に行った。わたしの頭は完璧に終えることだ。それはいつもと同じように、ブレないで、このツアーの中でやるべきことをしっかりやることが仕事なのだと思いながら、一本一本ドロップを丸めては搬入口へと運んでいった。最後の数本を残すことになった時、棟梁がこういった。
「おう、終わりだな」
「終わりだ、終わりだ」
「そうだ、終わりだ」
「泣いても笑っても終わりだ」
「ああ、終わりか」
「なんだ終わりたくないのか!」
「ちがうよ、終わりはどんなときもセンチメンタルなものよ!」
「あほか!」
わたしは抑えていた。いままで我慢して来たものがまもなく一瞬で解放されることを。へそ曲がりなのか、もうすぐ、ある一瞬ですべてが終わるのを悔しいと思った。一瞬ですべてが終わる?そんな!あれだけ怒りや悔しさを溜めてきたのに、一気に使い果たすなど勿体ないではないか。いや、もういい。もう、解放してくれ。最後の一本がトラックに吸い取られた瞬間、誰が仕切るでもなく、一斉に声が搬入口から外の公園に響き渡った。

「バンザーイ! バンザーイ!バンザーイ!」

全員の後ろ姿をわたしは見ていた。逆光のなか、皆、手を上げ、声を張り上げているのを。そして、裏方の真っ黒な背中には、小さいけれども真っ白い白鳥のような羽が生え、羽ばたき、薄汚れた床が鏡のような湖になり、幕に描いたような青い空と白い雲を映して、その湖面に少しばかり浮いているのを。皆、嬉しそうだった。皆、幸せそうだった。わたしも心なしか背中が痒い気がした。きっと風が羽を揺らしたからに違いないと思った。

(了)
作品名:『白鳥たちの湖』 作家名:佐崎 三郎