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佐崎 三郎
佐崎 三郎
novelistID. 27916
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『白鳥たちの湖』

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『白鳥たちの湖』

寝不足だった。もうかれこれ一か月半、バスとホテルと劇場の上で暮らしていた。休みという休みがない生活。そしてそれに伴う人間関係。人生においてこんな世界があるもんだと思わせた‘ある西欧国のバレエ団の日本ツアー’でわたしはある結論を得たのだった。

知人の紹介で舞台裏の作業員、「演出部」に誘われ、一月の半ばに東京では最も収容人員のあるホールで仕事は始まった。いわゆる舞台の裏方であり、雑用である。舞台には、「舞台監督」「演出部」「大道具」という部署があり、会社で受けたり、個人で受けたり、いろいろなパターンがあるが、この旅公演は演出部の2名(わたしともう一人、名はM)だけが、フリーランスで、あとは一応「チーム」だった。つまり、やりにくいのだった。大道具の棟梁が最も権力を振い、あとは手下という構図であり、外部であるわたしもその一派として理不尽な扱いを受けるのだ。この関係にわたしは反発した。普通は「監督」を頭に指示系統がしっかりすれば、スムーズにいくものであるが、ただ乱暴にふる舞う棟梁に誰も逆らえない社会になってしまう。それは、監督がそのチームの新人で、つまり手下の一人である。そのうえ、監督をするのが初めてだという。わたしとMは監督を10年近く携わっている身からすれば、まったくなってない奴なのだ。これが、‘癌’であった。

舞台の仕込みは戦場である。というか、勝手に戦場にしているのだ、あの棟梁が。搬入からまずは始まる。かならず演目が決まっているので、その荷物を11トントラックから降ろし、吊るべき幕を吊り、組み立てるべきものを組み、並べるものを並べ、リハーサルもそこそこに本番という流れである。この仕込みを仕切るのが「監督」なのだ。しかし、この新人は前準備もできず、その場での対応にあたふたし、そのあたふたを棟梁が怒鳴りまくる。棟梁は「綱元」というバトンを操作する所にいる。またこれが遠いと声が益々大きくなる。

棟梁   「おーい、何番のバトンに湖バックなんだ!」
わたし  「何番ですか」
監督   「26番!」
わたし  「にじゅうろくです!」
棟梁   「なに! にじゅうろく!」
わたし  「そうです!」
監督   「待って、28に変更」
わたし  「すみみません、変更でました!」
棟梁   「なんだ! へんこう?!」
わたし  「はい!」
棟梁   「何番!」
わたし  「28番! にじゅうはち!」
棟梁   「にじゅうはち!」
わたし  「はい!」
棟梁   「一回で決めろよー!!」

永遠こうなのだ。他の作業も同時進行しているので、大声は基本なのだが、その棟梁の声は常に喧嘩腰なのだ。その上、優柔不断の監督がころころバトンを変えるので、上げ下げを担当する大道具さんがイラつく。その間でわたしが振りまわされるのだ。ある時、これはバラシといって、本番のあとに仕込んだものを片付けるのだが、あるホールでの時、いざ始めようとした時、監督の野郎がいない。仕方がないので、わたしがバラシを仕切った。バトンは電動で動く場所だったので、ホール専属の担当者と相談しながら、20本近い背景の絵(ドロップという)の布を次々に降ろし、紐で結え、トラックへ運び、戦争の時間はいつもよりも早く終わった。それで、あの監督はどこにいるのかと思い、控室への階段を登っていったら、喫煙ルームで横になっていた。わたしは、呆れてものも言えず、そのまま降りて、すべてを仕切った。いつもよりも気持ち静かだった。それは棟梁の声が少なかったからだ。スムーズにわたしが進めたからだ。すると終わった頃に監督が来て、「早かったね」と言った。わたしは限界だった。

一旦ツアーは数日の休みになり、本番終わりでスタッフの中打ち上げがあった。その時、大道具は不在で、監督と演出部とプロデューサーと主催の若手がいた。わたしは様々な経緯で、気分はすぐれず、お疲れさまの挨拶のあと、ただ黙って生ビールを傾けてはテーブルに並べた。気弱そうなプロデューサーのH瀬さんは、気を使った話をしていた。タレ眼鏡で髪を長めの七三にした、元学生運動の闘士であったそうだ。彼がわたしに何かを問うてきた。それはなにかやりにくいことはないかとかなんとか。わたしは、酔っていたけれど、言うべきタイミングだと思い、具体的に監督批判をした。例えば、物を乱暴に扱うとか、散らかしたままだとか、勝手に寝てるとか、図面をちゃんと描いていないとか、覚えているすべてを語った。それを聞いた元全学連は、
H瀬   「まあまあ、そんなこといっても監督なんだから、監督のいうこと聞かないと。まとまるものもさ、まとまらないからさ」
わたし  「いや、ちゃんとやってくれればそうしますよ。というか、全部フォローしてますって。けれども、これからは本人が自覚してそういうことをやめて、普通に仕事をすればいいんじゃないの」
H瀬   「いや、それじゃさ、信頼関係ないよね。信頼関係があって、監督と演出部なんだから」
わたし  「信頼される人になればいいんですよ。彼が」
H瀬   「え、これからどうなの。信頼できないってこと?」
わたし  「できないですね。できるわけがない」
ニヤつく監督が目の前にいた。他の人間は壁のようにただそこにあった。この会話の数日あと、またツアーは再会したのだった。

外国人は、ダンサー数十名、オーケストラ演奏者数十名、衣装、小道具、大道具チーム、その他諸々合わせ、50名くらいで移動する。ダンサーは3チーム編成で演目別にバスに乗ってやってくる。日本人スタッフは殺人的スケジュールで仕事をこなし、疲れ果てていく。この悪循環が残り3週間はあった。荷物を降ろして、仕込んで、リハーサルして、本番やって、バラシて、積み込んで、バスに乗って次の土地へ。場合によっては、ホテルに着くのが明け方4時で、9時から仕込みという時間割。いわゆるドアtoドアである。そんな中でもやって当たり前という風潮が大手を振ってまかり通っている業界なのだ。

その主催者はある意味有名な会社でみな嫌ってやりたくないと思っている。けれども「仕事」だからと目の前の現金をチラつかせ、態度もデカイのだ。若い担当などは、初めは「さん」づけが、休みを挟んだら「ちゃん」づけだ。口調も上からの物言いに変わり、典型的な「業界人」だった。

そんな中でもわたしは真摯に仕事をした。しかし、監督の無謀さは、衰えることはなかった。だいたいが初体験の現場であるのだから、人の上に立つことすらできるはずもないのだ。わたしよりも若く、わたしのように現場叩き上げではなく、専門学校で机上の舞台理論を覚えさせられて、現場であたふたしているだけなのだ。それはそれでいいとしても、それならそういう態度で接してくれば助けもしょうというものだ。そういう教育を棟梁はできないのだ。ただ、棟梁は呑みの席では妙に優しいのだ。関西弁を使っているので、口が先で、実は相手の気を使い過ぎるほど使うのだ。そのギャップからの怒鳴りになるという理屈も、後半になったら理解できた。問題は監督だけだった。
作品名:『白鳥たちの湖』 作家名:佐崎 三郎