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白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~

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 この小さな絵蝋燭屋に縁(ゆかり)の者であることは容易に想像できたが、果たして、雇われた者なのか縁者なのかまでは判らない。突如として店先に座るようになったところを見ると、ここの娘というわけでもなさそうだ。この店は聞くところによれば、四十過ぎの亭主とその女房が二人だけでやっている小さな絵蝋燭屋ということだ。夫婦の娘といえば、丁度年頃もそのようではあったが、この夫婦に娘がいるとは聞いたことはなかった。
 娘はその日から殆ど毎日、店先に座るようになった。何をしているのかと注意深く見ると、大抵は熱心に本を読んでいるようだった。
 この娘があの時、傘を貸してくれた女と同一人物なのか。口に出して問えば済むことなのに、嘉門はなかなか言い出せないでいた。学問は苦手で、剣の稽古ばかりに明け暮れている武辺者の嘉門に、女を口説くすべなどなかった。それに―、はっきりと訊ねて、違うと否定されたら、そこで何もかもおしまいのような気がしたのだ。
 愚図愚図と迷っている中に、いつしか刻は過ぎて、あれから二年が経った。娘が花やの店番をするようになって、丸二年が経ったことになる。その間、嘉門は、いつもここを通るのが何よりの愉しみであった。行き帰りと、花やの前を通る度、娘がその場所にいるのをひそかに確かめ、何か安堵したような気持ちになるのだ。
 それにしても、我が身がこれほど女々しいというか、優柔不断な男だとは当の嘉門自身でさえ考えてもみなかった。ただ、ひと言、訊ねれば良いことなのに、現実が怖くてできないでいる。今日だって、道場を出たそのときから、胸は嫌が上にも高まっているというのに、娘の前では何食わぬ顔で通り過ぎようとしているのだから。
 自分の不甲斐性を心の中で呪いながら歩いていたそのときである。
 一陣の風が吹き抜けた。先刻感じたものよりは、はるかに強い風が嘉門の袴の裾を揺らす。と、ひらひらと、嘉門の前に何かが舞い落ちてきた。縦長の小さな紙片のように見えるそれを拾い上げると、どうやら栞らしい。しかも、きれいな押し花をあしらった栞で、上の方に小さな穴が開いて、紅い紐が結んである。
 栞に使われているのは、白粉花(おしろいばな)であった。
 嘉門は拾った栞についた土を軽く払った。
「あの―」
 後ろから遠慮がちに声をかけられ、嘉門は振り返る。
 そのときの嘉門の愕きといったら、天と地が引っ繰り返るほどのものだった。
 あの美しい娘が物言いたげに見つめている。娘がいつも座って店番をしている場所から、嘉門の立っている場所まではたかが知れている。嘉門は固唾を呑んで娘を見返した。
 いつも横眼で見るようにして通り過ぎていたため、娘の顔をこのようにまじまじと見たことがなかった。ひとめ見て、美しい娘だとは思っていたけれど、今、眼にした彼女の美しいこと!
 透き通るような雪の膚に、冴え冴えとした黒い瞳が潤んだように輝いている。唇はほのかな桜色で、例えるなら、そう―、この白粉花(おしろいばな)のように可憐で瑞々しい。
 嘉門は柄にもなく頬が熱くなるのを感じて、思わず手にした栞を握りしめた。
「その栞は私のものなのです」
「ああ」
 嘉門は、自分でも後でさんざん呪いたくなるような腑抜けた顔で頷いた。
「それは良かった」
 何が良かったのかと自問自答しながらも、嘉門はその栞を娘に向けて差し出した。
 その傍らで、頭がめまぐるしく働いていた。
 が、その割には、気の利いた科白が浮かんでこない。咄嗟に口から出たのは、実に何の変哲も面白みもないものだった。
「いつも、その場所に座っているのだな。たまには外に出て気散じでもせぬのか」
 娘が少し躊躇いを見せた後、立ち上がった。
 前後に肩を上下させながら、覚束ない脚取りで歩いてきた娘を見た時、嘉門は己れの無神経さを本気で恨んだ。
 ―娘の右脚が不自由なのは明らかだ。脚を踏み出す度に、右脚を引きずっている。
「ご覧のとおり、脚が不自由なのです」
「す、済まぬ」
 嘉門は更に頬が紅くなるのを自覚した。
「それは申し訳ないことを訊ねた」
 娘は嘉門から栞を受け取ると、淡く微笑んで首を振る。
「いいえ、私の脚が悪いのはもう三つのときからのことで、あなたさまのせいではございませんもの」
 三歳の砌、往来を走っていた荷馬車に撥ねられ、そのときの怪我が因でこのようになったのだと、娘は、さらりと話した。どうやら、馬車を操っていた男が昼日中から大量の酒を呑んで酔っ払っていたことが原因の事故であったようだが、娘は己れの苛酷な宿命(さだめ)にも、当の馬車を操っていた男へも何の遺恨も抱いてはいない様子で淡々と話すのだった。
 これだけ歩くのに難儀する様子では、他人(ひと)には言えぬ苦労も哀しみもあったろうに、娘の晴れやかな笑顔には不幸の翳りはなかった。
 その、誰もを恨まず、自分の宿命を従容として受け容れようとする姿は不思議と若い嘉門の心に何かを落とした。
「さりながら、厭なことを思い出させてしまって、そなたに不愉快な想いをさせた」
 嘉門が言うと、娘は笑んだまま小首を傾げた。
「―お優しいのですね」
「俺が優しい―?」
 今度は、嘉門の方が首をひねる番だ。だが、娘に直截に賞められて、悪い気はしない。まるで親に生まれて初めて賞められた子どものような気持ちになった。
「私が事故に遭ったのは、まだ三歳のときのことで、実はそのときのことを私は殆ど憶えていないのです。後から聞いた話ですが、その時、私はつなでいた母親の手を振り切って、猫を追いかけて通りへと走り出てしまったそうですわ。ですから、相手の人だけが悪いと決めつけることはできないのです。もし、私が母の手をふりほどくことがなければ、その事故は起きなかったでしょうから」
 娘は言い終え、少しだけに淋しげに微笑んだ。
 その時、嘉門は思ったのだ。娘は何も自分が背負った宿命を哀しんでいないわけではない。ただ、誰をも恨むまいと懸命に自分に言い聞かせて生きてきたのだろう。憎しみは憎しみを呼び、誰かを恨んで生きていても、空しいだけだから。
 彼は、父や父の愛した側室をひたすら恨んで生きてきた母がこの世の誰よりも不幸だと知っている。
 娘が立っているのも辛そうだったため、嘉門は話の途中で座るように勧めた。いつもの指定席にやはり脚をひきずりながら戻った娘は、眩しい笑顔を嘉門に向ける。
「いつも熱心に本を読んでいるな。俺なんぞ、学問よりも剣を振り回していた方がつくづく性に合う厄介者で、自分でもいささか難儀している。だから、いつもそなたがここで愉しげに書物を読んでいるのを見て、羨ましいと思うていたのだ。一体、何の本を読んでいるのだ? そのように面白き本であれば、俺も是非、読んでみたい」
 その本を読んでみたいという知的欲求よりは、その本を共通の話題、つまり話の種にして娘ともっと親しくなりたいという極めて俗なというか、下心のあるものだったのだけれど。
 娘は嘉門の本心なぞ知らぬげに、ふわりと微笑む。
「お応えするのは簡単ですけど、初めてお話する方には少し恥ずかしいのですが」
 娘のはにかんだような笑顔があまりにも可愛らしくて、嘉門はつい身を乗り出した。