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白粉花(おしろいばな)~旗本嘉門の恋~

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 母は母で、美しい面にいつも険を孕み、絶えず何かに苛立っていた。今になってみれば、母は父に振り向いて貰いたかったのだろうと察することができる。が、我が身が松平家の姫であるという誇りは、最後まで母を縛りつけてしまった。母は最後まで父に歩み寄ろうとはせず頑なな態度を守り、その病床を見舞うことさえなかったのだ。
 自分の両親の失敗に終わった結婚生活を見ていれば、嘉門は結婚など一生涯しなくても良いとさえ思う。母が一日も早い世継の誕生をと願う気持ちも判らないではないけれど、愛せもできぬ女を抱いて、偽りの愛を囁いてまで子を儲けることがそれほどまでに大事なのかと疑問であった。
 とはいえ、嘉門も石澤家の当主であるという己の立場は自覚している。石澤家は五百石取りではあるが、初代将軍家康公の御世から連綿と続いてきた譜代の名門だ。母が実家よりはるかに格下だと嘆きながらも、婚家の存続には血眼になっているその気持ちもまた道理だし、嘉門の代でその血が絶えるようなことにでもなれば、亡くなった父にも申し訳が立たない。
 ゆえに、いずれは、たとえ惚れてもおらぬ女でも妻として迎え、子を儲けねばならぬということも厭というほど判っていた。母が次々に持ってくる縁談は、どこそこの藩の姫君だとか、旗本でも一千石取りの大身の姫であるとか、嘉門よりははるかに〝格上〟の家柄の娘たちばかりだ。
 そのいずれもが母の実家松平家のつてでもたらされたもので、母は石澤家に箔をつけるため高貴な姫君を嫁に迎えようと目論んでいる。だが、母は何も判ってはいない。
―その身分の違いこそが、母上のいちばんの不幸の源であったのにな。
 それでも、母は幸福になろうとすれば、幾らでも幸せになれたはずだ。父は男ぶりも良く、誠実で穏やかな気性の男であった。嘉門は外見も気性も父には似ていない。母ゆずりの美貌を受け継ぎ、端整な面の中、殊に切れ長の二重の眼許が印象的だ。
 学問より武芸を好んで外を駆け回って育ったせいか、精悍に陽灼けした膚は野性味を滲ませ、男前といっても父のような繊細な貴公子然とした風貌ではなかった。また、気性も父のものを受け継いでいれば、もう少し物腰も柔和であったろうが、その気性の烈しさは並ではない。これもまた、母からしっかりと受け継いでしまったものだろう。その癖、瞳だけは醒めているから、外見は冷静沈着なのだと誤解されがちだが、そんなことはない、嘉門は自分の性格が例えるなら焔のようなものだと自分で判っていた。
 今日もまた屋敷に戻れば、母のいつもの小言、繰り言が始まり、しまいには先日、紹介されたばかりの姫君たちの名前を連呼され、
―そろそろ、どなたかにお決めになっても良い頃合いではございませぬか。
 まるで巷の借金取りが借金の催促をするように迫ってくる。
 嘉門はもう一度、空を振り仰ぎ、眩しげに眼を細めた。
 今日は天気が殊の外良い。不思議なもので、新しい年が来ると、まだ真冬だというにも拘わらず、陽の光が日毎に強さを増してくるような気がするのは気のせいだろうか。現実には、まだまだ吹く風も大気も冷たさを含んでいるのに、何か春の脚音が遠くから聞こえてくるような気がする。
 多分、新たな年を迎えたという希望、今年一年に託した人々の想いがそんな風に感じさせるのだろう。明日への希望や夢を持つのは良いことだと、嘉門のような、いささかひねくれ者だと自認する人間でも素直に人々の気持ちに共感できる。心なしか日毎に明るさを増してゆくような陽ざしを見ていると、そんな気になった。
 今日は道場で思いきり汗を流してきて、余計に気分は爽快だった。
 嘉門は父がかつて若き頃に通った道場の門弟だ。道場主は父よりは十ほど年長で、誰にでも心を開くことのない嘉門にとっては珍しく尊敬する人物の一人であった。父とも師弟というよりは気心の知れた友のような関係であったことから、嘉門を実の息子のように可愛がっている。嘉門の剣の腕は父ゆずりらしい。十二でここの門弟となって以来、めきめきと腕を曲げ、今では道場でも名の知れた高弟の一人に数えられていた。
 屋敷にいて、母にやれ結婚しろ、妻を娶って子を儲けろなどとせっつかれるよりは、町の道場で剣を握っていた方がよほど良い。
 そこで、嘉門はハッと我に返った。
 そろそろ、いつもの場所だ。そう、町人町の目抜き通りも終わりかけた片隅に、その店はある。嘉門の屋敷があるのは町人町とは和泉橋を隔てて隣り合った和泉橋町だが、通う道場はここ町人町にあるのだ。
 町人町といえば、江戸でも名の知れた大店ばかりが軒を連ねる商人の町で、今、彼が歩いている大通りはその中でも特に構えの大きな店が居並んでいる。
 目的の店は、そんな大店ばかりが続いた大通りの片隅にひっそりと佇んでいる。小さな筆屋と仏具屋が大通りを挟んで向かい合う四ツ辻で、大通りは終わる。その仏具屋の傍らに〝花や〟という絵蝋燭屋があった。嘉門はいつも和泉橋町に帰るときは、この道筋を通る。自然、花やの前をも通ることになる。
 あの娘がいると思うと、何故か心が逸る。
 嘉門はつとめて平静を装いながら、ゆっくりとした脚取りで店の前を横切ろうとした。何げない仕種でつと視線を動かすと、やはり、その場所に娘はいた。店先の帳場に座り、一心に本を読んでいる。学問の苦手な嘉門にとっては、何をそんなに熱心に読んで愉しいのかと思うけれど、娘は嘉門の存在など眼にも入らぬ様子で没頭しているようだ。
 あの娘を初めて見たのは、もう、どれくらい前のことになるだろう。そう、あれは忘れもしない三年前の初夏のこと。江戸が梅雨入りしてまもないある日のことだった。
 その日、嘉門は通い慣れた町の道場からの帰り道で、突然の驟雨に遭った。道場を出たばかりのときは小降りであったのに、花やの前に差しかかった辺りから本降りになり、立ち往生してしまった。慌ててこの店の軒先に駆け込んだ嘉門が空を恨めしげに見上げていたときのことだ。
―どうぞお使い下さいませ。
 鈴を転がすように玲瓏な声と共に差し出されたのは、小さな手ぬぐいと傘であった。
 礼を言おうにも、振り向いたその時、既に相手は店の奥に引っ込んでいた。
 それから嘉門は何度かその店の前を通りかかったが、花やの店先に座っているのは四十前後の女で、到底、嘉門に傘を差しだしてくれた若い娘とは思えない。そうこうしている中に、嘉門は傘と手ぬぐいを返しそびれてしまった。
 運命の瞬間が訪れたのは、更にその半年余り後である。年が明けたある日、嘉門がやはり道場からの帰りにそこを通りかかると、見たこともない美しい娘が座っていた。
―この娘だ!!
 何故か、その時、嘉門は瞬時に悟った。
 娘と話したこともないのに、嘉門は自分に傘と手ぬぐいを貸してくれたのが、この娘だと悟ったのである。それは殆ど勘ではあったけれど、嘉門には確信めいたものがあった。
 しかし、そうは思っても、なかなか自分から娘に声をかけることはできなかった。娘がそも何者なのか―、嘉門には大いに関心があった。