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拝み屋 葵 【伍】 ― 薫陶成性 ―

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 *  *  *

 青木ヶ原。富士山の北西部に広がる原野。富士の樹海として名高い。千二百年前の噴火によって流れ出た溶岩の上に形成された原生林である。
 溶岩に含まれる磁鉄鉱によって磁場がわずかに狂うものの、磁針を狂わせるほどの磁力はなく、方位そのものを見失うことはない。
 溶岩が冷えて固まった地面は凹凸が激しく、無数の溶岩洞が存在している。人の足で直進することは不可能に近く、瞬時に見分けが付く目印もない。
 普段、人工建造物に囲まれて生活する者が、人の手が加わっていない原始林に足を踏み込めばどうなるかなど、わざわざ字数を割いて説明するまでもないだろう。

 洞窟群を形成している一つの洞穴の入口に、式・薄の姿があった。
「おいでになりました」
 薄は、樹木の向こう側、遠く西の空から飛来する気配に視線を向けつつ、洞穴の中にいる主に合図を送った。
「分かった。下がっておれ」
 主の令を受けた薄は、その姿を徐々に景色と同化させていった。
 ほどなく、黒い瘴気を纏った気配が洞穴の上空に到達した。
「出迎えをいただけるとはね」
「なに、敷いたばかりの陣を荒らされたくないだけのこと」
 二人は地上三百メートルの中空で会話を続ける。
「陣? 何をやっている?」
「教えてやらんこともないが、望みは不老不死であろう?」
「然り。弟子を見殺しにしてまで何をやっているのかと、ふと興味が湧いてね。ニセモノだと知りながら弟子の元へ行かせただろう? あのとき素直に応じておれば、弟子を死なせずに済んだものを」
「あの箱は渡したのか?」
「だからここにいる。ニセモノだと気付いておきながら、ご丁寧にお師匠さまの居場所を教えてくれたよ。その礼に、この手で頭蓋を打ち砕いてやった。つい力が入りすぎて、山ごと破壊してしまったが。ククク。掘り返せば肉片の一つも出てくるかもしれんぞ」
「葵がお前如きに遅れを取るとは思えんが」
「過大評価だな。確かに、人間にしては強めの力を持っていたようだが、俺の足元にも及ばない。そうそう、無在を使ったと言っていたな。しかし結果はご覧の通り」
「知っているのは無在の名だけのようだな。無在を防ぐ方法はただ一つ、使わせないこと。
葵が“無在を使った”と口にしたのであれば、お前はすでに“無在の中”にいる」
「無在の中?」
「自は他によって認識されることで存在を確立している。他による認識を失えば、自は存在を保てなくなる。存在していないものからは一切の干渉を受けず、存在していないものへは一切の干渉が不可能となる。意図的にその状態を作る。それが無在。発した者と受けた者とは、別世界の存在になる。お前が発した因果は葵に届かぬし、葵がお前に対して因果を発することもない。因果が届かぬのだから、無在を受けたことにも気付けないのだ」
「なん……だと」
「ここは、葵がお前だけのために作った、お前だけの世界。そして私は、この世界にだけ存在する、葵に作られた私だ。我らの他には何者も存在すまいよ」
 有無を言わさず放たれた波動が、富士の御山を掠め、雲を蒸発させながら彼方へと伸びる。
「俺をここから出せ」
 言葉は、絶望から目を逸らす最後の手段であった。
「自身が神となり、好きに創世すればよい」
「まさか」
「お前は何のために私に会いに来た? 望みは不老不死であろう?」
「きっ……さま!」
「決して老いることなく、世界を七度滅ぼす天雷にも耐える肉体だ。好きに使え。無限の時を使って世界の隅々までを調べ尽くせば、あるいは私のようにあらゆる時空に干渉できる者と出会えるかもしれん。尤も、日本の半分にも満たない世界だが」
 ヒトリならば充分な広さだろう、と笑う。
「いつか必ず復讐してやる。不老不死を与えたこと、後悔させてやろうぞ!」
「……そう願う」

 *  *  *

 秋も終わりを見せはじめ、はらはらと舞う紅黄の葉に、もののあはれを思う時分となる。
 長い石段の先、簡素な冠木門の向こうに、寝殿造とも書院造とも付かぬ屋敷がどっしりと構えている。屋敷にある南向きの広い庭では、昼は小鳥たちが囀り、日が沈んだあとには夜虫たちが歌う。庭に沿う大広間、三十畳はあろうかという長部屋には、空色の袷を着た女の姿があった。
 奥にある簾に向かう女は、羽休みに訪れた小鳥が再び飛び去っても、微動だにしなかった。
 女は、見るからに物静かで朗らかな風情ではあったが、その眼光には一つの強固な感情が宿っていた。
「私は怒っているのです」
 前触れもなく女が口を開く。
 その無感情な声が、込められた怒りを水増しして相手に伝えていることを、当の本人は気付いていない。
「そう言うてくれるな」
「あの子に何かあれば、どのように責任を――」
 玉砂利の庭に降り立つ影が一つ。
 瞬時、女の視線が簾から庭先へと向けられる。
「よい。友人だ」
 空色袷の女は視線を簾に戻し、了承の意を示すためにわずかばかり身を前方に倒す。
「これは失礼。来客中でありましたか」
 僧衣を纏う大きな人の姿は、天狗・安葉正眼坊のものである。
「構わぬよ」
「然らば手短に。先の一件、ミトリの仕業でありました」
「ミトリか。ならば真の狙いは“無在”であったか」
「ミトリとは?」と、空色袷の女が訊ねる。
「字は見取と書く。敢えて分類するならば、サトリの亜種だ。目に捉えた物事を、そっくりそのまま真似する妖怪だ。そういう点では、ヤマビコとも似ている。普段は鏡の中にいて、悪戯程度に人を怖がらせる」
「では、某はこれにて失礼仕る」
「うむ。正眼殿、また後日」
 正眼坊はうやうやしく一礼して見せ、そのまま体勢で大空へと舞い上がった。
 正眼坊の気配が去ったあと、しばしの沈黙を挟み、重々しく言葉が発せられた。
「あれは、八天狗にも迫る力であったよ」
「ミトリとは、妖力をも真似るのですか?」
「いや、動きだけだ。自身の妖力を超える呪法の類は模倣できない……はずなのだが」
 そこで言葉を切り、ふうぅ、と長く息を吐いたあと、首を左右へと交互に傾ける。
 それぞれに差はあれど、八天狗の一人がその気になれば、天頂にある太陽が地平に辿り着く前に、極東の島国が世界地図から消えることになる。
 それほどの力に、一介の大天狗である安葉正眼坊が敵うはずはなかった。
「それにしても、随分と忙しなく」
「会わせる顔がないのだ。察してやってくれ」
「お師匠はん、いてはりますー?」
 玄関より、底抜けに明るい声が飛び込んでくる。
 呼応するかのように、つい、と薄が視界に現れ、玄関へと向かった。
「私もそろそろ」
 空色袷の女は、音も無く立ち上がる。そうして、会っていかないのか、と呼び止める声に対し、察してくださいな、と微笑んだ。

 ― 『無在』 了 ―