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虫めずる姫君異聞・其の二

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ちなみに弘徽殿というのは弘徽殿女御藤原要子(ようし)のことである。要子は右大臣藤原道嗣の一の姫であり、帝が元服の際、〝御添伏〟に立った姫であった。帝より六歳年長であり、既に二十五歳になるが、いまだに御子には恵まれていない。いや、帝の後宮には要子だけでなく他にも入内した女御が幾人かいる。いずれも大納言以上の家格の娘で、飛ぶ鳥を落とす藤原氏の娘ほどではないにせよ、それなりの後ろ盾を持っていた。
 が、その中の誰一人として、これまで帝の御子を授かった女性はいなかった。そんな中で、一番最後に後宮に入った祐子だけが懐妊、しかも懐妊が判ったのは寝所に初めて召されてから三月(みつき)と経ぬ中であった。祐子があまたの妃たちの妬みと羨望の的になったであろうことは容易に想像がつくというものだ。
 だが、帝は肝心なことを忘れている。
 女は男を愛するようになれば、誰でもその男の心を独占したいと願うようになるものだ。いや、それは女だけではなく、男の方にしたって同じことだろう。愛すればこそ、相手にもまた自分だけを見つめていて欲しい。それは至極当然の心理だと思う。
 幾ら一夫多妻が不文律であった当時とはいえ、人の心はそのような慣習や習わしといったものだけで縛ることはできない。たとえ理性で理解はしていても、感情では割り切れないものだ。
「主上、弘徽殿女御さまのなさったことは、人として、けして許されることではございませぬ。さりながら、弘徽殿女御さまも桐壺の御息所とご同様、また主上をお心よりお慕いなさっておられたのでしょう。その切ない女心も少しはお察しなさって上げて下さいませ」
「―」
 帝の切れ長の眼がわずかに見開かれた。
「そなた、同じことを申すな」
「え?」
 その科白の意味を計りかねていると、帝がフッと笑う。その笑みは皮肉げでもなく、ひどく淋しげに見えた。
「祐子も―亡き桐壺も同じことを言った」
 帝の脳裡にありし日の祐子の面影が甦る。
 ある朝、帝の寝所に召されての淑景舎(後宮の御殿の呼び名の一つで、祐子はここを住まいとして与えられている。淑景舎のまたの名が桐壺であったことから、祐子は〝桐壺更衣〟と呼ばれた)への帰り道、突然の雨が降った。
 が、帰ろうにも後宮へと通じる戸は固く閉ざされて、祐子一行はその場に立ち往生、屋根もない渡殿(廊下)でびしょ濡れになった。そのため、祐子は風邪を引き込み、数日も伏せることになってしまったのだ。事の次第を祐子のお付きの女房から聞いた帝は烈火のごとく怒り、弘徽殿へと乗り込もうとした。
 そも誰がそのような馬鹿げた―子どもじみた厭がらせをしたかは明白だ。
 しかしながら、そのときでさえ、祐子は涙ながらに帝に訴えた。
―どうか主上、弘徽殿女御さまを罰したりはなさらないで下さいませ。私と同じように、あのお方もまた主上を心よりお慕いあそばされておられるのです。その切ないお心を今少しお汲みとりあそばされて。
 その時、帝は言葉を失った。
 これほどまでに手酷い仕打ちを受けながらも、泣きながら弘徽殿女御を庇うその優しさに打たれたのだ。それ以降、帝の祐子への寵愛がますます深まったのは言うまでもない。
「あれは、俺には勿体ないほどの女だった。まさしく天が遣わしてくれたと、―俺のような無信心な人間でも素直にそんな風に信じられるほどの女であった」
 帝が呟く。
 帝もまた心底から祐子を愛していたのだ、皇太后安子の言うように、二人は互いに心から必要とし合っていた。
 そのことが、帝の言動からありありと伝わってくる。
―本当に傍で見ている者までもが幸せな気持ちになれるような、そんな恋人同士だったのですよ。
 あの安子の言葉は、恐らくは真実であったに相違ない。
 祐子の一生はあまりにも儚く短いものではあったけれど、そこまで愛し愛されたのであれば、けして女として不幸な一生だったとは公子は思わない。そこまで―生命を賭けて愛せるほどの相手にめぐり逢うこと自体、親の言うがままに嫁がねばならぬ運命(さだめ)の貴族の子女であれば滅多とないことだった。
 いや、生まれながらに他人から不具と言われる哀しい宿命を背負った公子は誰にも嫁ぐことすら叶わない。そんな我が身であれば、尚更、祐子を羨ましいと思わずにはいられない。女として生まれ、身を灼くほどの烈しい恋に落ち、また自身もその男に愛され、その男の子を二人も授かったのだから―。
 ぼんやりと物想いに耽っていると、帝の低い声がふと耳を打った。
「俺が何故、桐壺を愛したか、その理由(わけ)が判るか?」
 直截に問われ、公子は眼を瞠る。
 少し躊躇った後、小さな声で応えた。
「それは祐子さまがお綺麗だし、お優しいから―」
 が、皆まで言うことはできなかった。
 帝の唇が笑みの形を象る。
 また、あの冷たい眼、氷のような微笑。
 思わず、身体が小刻みに震えた。
 聞いてはならない。この先に続く言葉をけして聞いてはならないと、もう一人の自分がしきりに囁いているような気がした。
「それは、祐子がそなたに似ていたからだ」
「―嘘」
 公子は小さくかぶりを振る。
「嘘、俺の言うことが嘘だと何故、そなたには言い切れる? 俺は祐子を愛していたわけではない。いや、それは言い過ぎかな。最初は、そなたによく似た祐子を通して、そなたを見ていたことは確かだが、次第にあいつの優しさやそなたにはない従順さ素直さを可愛いものだと思うようにはなっていた。それでも、愛してはいたが、そなたを想うようには愛せなかった。そなたは俺の心を熱くする。そなたを見れば、俺の心は燃え上がる。だが、祐子にそんな烈しい想いを感じたことはなかった」
 公子は、夢中で首を振り続けた。
「嘘、嘘だわ。そんなの嘘よ」
 眼の前の男が怖い、無性に怖くてたまらなかった。男の眼には異様な輝きを宿している。熱に浮かされたような口調で喋る男の瞳には狂気が潜んでいるようにも見えた。
「嘘ではない。俺は昔から、子どもの頃からそなたを好きだった、公子。そなたが俺の初恋の女だ」
「嘘ーッ!!」
 公子は思わず両手で耳を塞ぐ。
 聞きたくない。そんな言葉なんて、聞きたくない。公子がもしこの世で最も嫌いな―逢いたくない相手がいるとすれば、それがこの男だった。子どもの頃から、顔を見れば〝醜女〟だと公子を傷つけ、心を抉るようなことばかりしか言わなかった。そんな男に憎しみに近い感情すら抱いたこともあった。
 顔も見たくない男から突然に想いを打ち明けられても、混乱するばかりだ。嬉しいどころか、厭わしさを感じてしまう。
 公子は混乱状態のまま、ひどく取り乱した気持ちで立ち上がった。
―帰らなければ、家に、帰らなければ。
 ただ父の待つ我が家に、住み慣れた屋敷に帰りたい一心であった。
 と、唐突に下腹部に鈍い痛みを感じた。
「あ―」
 突然の痛みに、公子は腹を押さえて蹲る。
「姫、姫?」
 帝の慌てた声が聞こえる。
 下腹部から太股を生温いものがつうっとつたい降りてゆくのが判った。
―なに、これは一体、何なの。
 いっそう惑乱しながら、公子はその場にくずおれた。それは、まるで心ない雨に打たれた花びらがはらはらと散ってゆくのにも似ていた。
「姫、どうしたんだ」