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遊学日記

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勤めていた美容室を辞めて出来た休みの一ヶ月間を利用して、タイへ来たのが私にとっての人生初の海外旅行だった。あの時はとにかく何処かへ行ってみたく、何年も抑えこんでいた何かが急に噴火したような感じだったのかもしれない。急に思い立ち仕事を辞め、あれこれ探して結局見つけたのが、「世界中から集まった仲間と一緒に旅をする現地発着多国籍ツアー」だった。それがありきたりのパック旅行ではなく、現地に深く関われるタイプのツアーだった事に心惹かれた。初海外でも行きやすいタイかバリ島を勧められ、トレッキングで山岳民族の村へ行き、ホームステイをして現地の子供と触れ合いながらウルルン滞在記のような体験ができるという内容に魅力を感じ、最終的にタイのツアーを選んだ。
現地発着なので出発時はもちろん一人。出発日前日から極度の緊張が襲ってきて、当日は空港で人生で始めての神経性胃炎を体験し、バンコクで殺されるかも知れない、二度と日本には戻って来れないかも知れない、と本気で思い、その覚悟で飛行機に乗った。
そうしながらも、なんとか現地のホテルに到着したものの、中級クラスだと聞いていたホテルは、私がイメージしていた中級ホテルよりは遥かに格下で、廊下から聞こえてくる英語は、洋画のホラー映画の言葉のように聞こえた。下の階にあるレストランで、英語だらけのメニューを見ながら適当に頼んだ料理は、本格的なタイ料理で、その馴れない味と緊張で料理は殆ど喉を通らなかった。
翌日ホテルで顔を合わせた、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ドイツ、イギリス、から集まった十二人のメンバーとタイ人のリーダーでツアーは始まった。
メンバーの中に日本人は私一人で、全てのコミュニケーションは英語を使うしかなかったのだけれど、当時の私の英語力は酷いものだった。出発前の一年ほど英会話へ通っていたので、少しは話せるのではないかと考えていたけれど、実際は挨拶程度しかできず、後はちんぷんかんぷんで、何を話しているのかさっぱり分からなかった。発音に関しても「three」という簡単な単語を話しても理解してもらえず、自分の発音がいかにカタカナ英語なのかを思い知った。それでも、リーダーの女性のマンと、アメリカ人男性のケン、ドイツ人女性のカジャが何かと面倒を見てくれて、一人で孤立する事はなく、初日の緊張が嘘のように、とき解れていった。
孤立する事はなかったけれど、言葉が殆ど通じないと、人は赤ちゃんと同じ存在になれるのだというのも実感した。欧米人から見ると日本人はどうしても若く見えるようで、当時私は二十五歳であったにも関わらず十代にしか見えないと言われ、それに加えて言葉が通じないので、みんなから「妹」と呼ばれた。ケンは私にも理解できる簡単な英語「where」や「what」などにジャスチャーを加え、やりとりをしてくれたり、カジャとは毎回部屋わりの時は同じ部屋にしたり、マンは「ビッグ ベイビー」だとからかいながらも、いつも私を気にかけてくれた。
タイでは働いている子供が印象的なのと、行く先々のゲストハウスが水シャワーなのが私にとって強烈だった。ツアーに慣れてきた頃の三日目、水シャワーが効いたのか私は三十八度以上の熱を出した。何年も熱など出した事などなかったので自分自身驚いたが、日本を発った時の緊張から思い返し、それほど体もダメージを受けていたのだと思い知った。寝ている私をメンバーはとても心配してくれ、特にカジャとケンは、何度も寝ている私の所へ様子を見に来てくれた。翌日には私の熱はすっかり下がり、元気を取り戻す事ができた。
ただ普段と違う境遇で、心身共にダメージを受けているのは私だけではなかったようで、オーストラリア人の若夫婦の女性は、母親からの電話の声を聞いて泣いていたり、カジャも戦争の傷跡が残る名所へ行った後には、考え深い顔をしていた。お互いに始めての経験を共にする事で、メンバーとの距離は縮まり、言葉なんて関係なく人は仲良くなれるという事を実感した。  
そうこうしながら場所を移動し、一週間目にツアーのメインである山岳民族の村へのトレッキングが始まった。半日のトレッキングで、一日目に宿泊する村へ到着すると、大人と子供が民族衣装やアクササリーを買ってもらう為に、商品を広げ始めた。
あの時はとてもショックだった。私は山岳民族に昔から変わらない生活をしている神聖な民族というイメージを持っていた。何か買ってくれ、お金がない、そうせびられ、抱いていた純朴なイメージを壊された気がした。マンが話す英語の説明を私は理解できなかったけれど、売り上げがこの民族の収入になる事はよく理解できた。私は子供に髪を切ってコミュニケーションがとりたいと考えていたので、日本からはさみを持ってきていた。ただ実際の光景を見て、髪を切ってあげることなんかより、何か一つでも物を買ってあげる事の方が、この人達にとって良いのだと思った。いくつかお土産を買い、何人もいる子供と遊び一緒に折り紙を折った。折れると思い持ってきた折り紙だったけれど、いざとなると子供の時以来なので、途中で折り方が分からなくなってしまったので、折り紙に日本語を書いて教えたり、子供達は折り紙に絵を描いてくれプレゼントしてくれた。その夜は子供達が楽器で演奏を披露してくれ一日目は終わった。
二日目に泊まる村へ到着した時に、私は前日よりも強い衝撃を受けた。その村の人々は前日の村に比べ明らかに活気がなく、大人も子供も病気の人が多いように感じた。前日の村にはあった水シャワーが、川での水浴びだった。観光客の私達はそれも新鮮で楽しかったけれど、綺麗とは言えない川の水をシャワー代わりに使っているのだから、そりゃ病気にもなるだろうと思ったし、こんな山奥では病院の手も届かないのだろうと感じた。
沢山いる子供の中に、四・五歳くらいの男の子がいた。その子は何故か私にとても懐いてくれ、私は日が暮れるまでその子を抱っこしていた。目が大きくてとても可愛い男の子だったけれど、坊主頭に握り拳ほどの大きさの剥げがありそれは白くなっていて、明らかに病気だと分かった。その子の親はまだ十代で、人目も気にせずに赤ちゃんにおっぱいを与えていた。赤ちゃんの世話をする母親と私に懐いてくる男の子の様子から、この子には手がまわってなく愛情に飢えているのではないかと感じた。その他にも子供は沢山いて、その中にはっきりした顔立ちの女の子がいた。少女はおんぶ紐を使って男の子を背負い、少女が母親のように面倒をみている事を伺わせた。少女に年齢を尋ねると、十歳だと言い、背負っている弟は二歳だと教えてくれた。他愛のない会話をしながら彼女の髪を編みこみしてあげると、お返しに私の髪も編んでくれようとしたけれど、彼女は上手くできなかった。だけど私にはその行為が嬉しかった。

村の貧しすぎる光景を目の当たりにして、ただの好奇心で子供と遊びたがっていた自分が恥ずかしくなった。小さい頃母親に言われた言葉。
「貧しい国の人達だっているんだから、食べ物は無駄にしないようにしなさい。」
作品名:遊学日記 作家名:ともえ