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約束~リラの花の咲く頃に~再会編Ⅰ

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想い

 果てのない闇は、はるか彼方まで続いていた。たったひと晩だけではなく、それこそ無数の夜を重ねてもなおまだ足りぬほどの深い闇が彼を取り巻いている。
 そう、あの女が彼の前からいなくなって以来、彼は無明の闇の中に捕らわれたままだ。彼にとって、あの女との出逢いは宿命とも言えるべきものだった。出逢うべくして出逢い、また、引き離れされてしまった愛しい女。
 彼女と彼を無情に引き裂いたのもまた、運命と呼ばれる予め定められたものだ。女が消えてからというもの、彼にとっては周囲のすべてのものが色褪せて見えた。愛する者が去り、生きる甲斐を失っても、四季はうつろい、花は咲き、樹々は色づく。
 しかし、どんな花の美しさも彼には何ほどの価値もない、つまらないものだ。いっそのこと、本当に世界の、この世のすべてが闇に塗り込められてしまえば良いのにと思うことさえあった。
 あの女が傍にいない限り、彼にとっては長い夜は永遠に続き、けして朝が来ることはない。
 この世から太陽がなくなろうが、どうなろうが、味気ない世界に変わりはないのだ。だが、残酷な時の流れは止まることなく時を刻み、夜は必ず明け、また、朝がやって来る。こうやって自分は一体幾つもの気の遠くなるような日々を繰り返してゆくのだろう。
 ああ、莉彩(イチェ)よ。私は一体、どうやって、お前のいないこの無為の日々を過ごせば良いのだ? そなたのおらぬこの世界は、私にとっては、あまりに物足りぬ。
 私はこうして生きて、物を食し、眠り、或いは廷臣たちが次々に上奏してくる意見書に眼を通し裁決をして玉爾を捺してはいるが、実のところ、自分でも何を考え、何をしているのか皆目判ってはいないのだ。
 たとえ何人もの廷臣たちを前に玉座に座っていても、心はそこにはない。
 私の心は莉彩、いつもそなたと共にある。何百年という想像もつかないほどの時を隔てた彼方にいるそなたのことだけを考えて、私は生きている。多分、今の私は生ける屍と化しているに違いない。
 眼に映るものはすべて何の意味もなさず、自分が話している言葉すら、まるで全く別の人間が口にしている科白のようだ。
 教えてくれ、莉彩。私はどうしたら良いのだ? もう二度とそなたに逢えぬというのなら、私は何を生きる目的にして、これからの途方のない日々をやり過ごしてゆけば良い?
 今の私には、生きることはおろか、己れの座るこの玉座さえ疎ましい。
 王の座に一体、何の価値があるというのだろう? それとも、莉彩、民の苦しみや声に真摯に耳を傾けようともせず、こうやってたった一人の女への恋情に溺れ政を顧みようともせぬ私をそなたは軽蔑するだろうか。
 だが、私は何と誹られても構いはしない。そなたさえ私の傍にいて、いつもその微笑みで私の心を慰め癒やしてくれるのなら、歓んで良き君主になろう、そなたのために〝聖(ソン)君(グン)〟と呼ばれ崇められる賢明で情け深い王になってみせよう。
 孤独な王はたった一人、広大な宮殿の一隅に佇み、夜空を見上げる。漆黒の闇に浮かぶ満月は水晶(クリスタル)を思わせるほど透き通り、かすかに蒼ざめている。殿舎の向こうに見える月は手のひらを伸ばせば届きそうなほど間近に迫っており、くっきりとした表面の模様までもが見渡せる。
 王がふと思い出したように懐をまさぐった。懐に差し入れた王の手に握られているのは、一枚の手巾だった。白い小さな手巾の片隅に可憐な紫の花、リラの花が刺繍されている。劉尚宮に叱られて泣いていた莉彩の涙を王が手ずから拭き、莉彩もまた同じこの手巾で王の涙を拭った。二人にとっては想い出の品である。
 莉彩、そなたは、この手巾のことを今でも憶えているか?
 王は純白の布を月明かりにかざしながら、遠い時の果てにいる恋人に問いかける。
 月が異様なまでに明るい割には、夜空に浮かぶ星はまばらだ。時折、申し訳程度に瞬く星はいかにも頼りなげに見えた。
 この(朝)国(鮮)で至高の存在だと敬われる身でありながら、生涯でただ一度、心に抱(いだ)いた望みは果たされない。この広い宮殿には何千という人間がひしめいているというのに、彼が求めてやまない女人はどこにもいない。
 王はひたすら孤独だった。ただ、彼女に逢いたかった。この腕は切ないくらい彼(か)のひとを抱きしめたくて、抱きしめようと伸ばそうとするのに、彼女は遠い時の彼方にいて指一本触れることも叶わない。
―莉彩。
 王は最愛の想い人の名を心の中で叫ぶ。
 逢いたい、ただひとめで良いから逢いたい。
 切なさと恋情が嵐のように荒れ狂う。煌々と地上を照らす満月を身じろぎもせず見上げる王の端整な横顔には、濃い翳りが落ちていた。

 退社予定時刻を既に一時間余りも過ぎ、その日の莉彩(りさ)の仕事は漸く目途がついた。もっとも、先輩である上杉実香子からの突然の頼みがなければ、とっくにタイム・カードを押して会社を後にしていただろうけれど。
 安藤莉彩は二十六歳、北海道のR女子大の文学部英語学科を卒業後、郷里のY町には帰らず、そのまま北海道で就職した。
 十年前、朝鮮王朝時代にタイムトリップした莉彩は、その時代に生きる人々を見た。国王や王族、両班(ヤンバン)と呼ばれる特権階級だけが贅沢に耽り、奢侈な生活を送る傍らで、庶民たちは日々の食べる米にさえ困り、貧しさに喘いでいる。
 上の者は下の者から搾取することしか考えていない。富める者たちの許には放っておいても金が集まり、貧しい民が働いても働いても一向に金持ちになれない社会の仕組みは、どこか五百六十年後の現代日本にも通ずるところがあった。
 莉彩はそこで民の生活の現実を知るにつけ、これまで何不自由ない二十一世紀の生活を当然と受け止めていた自分を恥じた。ちっぽけな自分には大した力はないけれど、二十一世紀に還ることがあれば、将来は福祉関係―介護の仕事について少しでも誰かの役に立ちたいと願ったのだ。
 そのために大学で福祉や介護について学びたいという明確な夢を持つようになった。
 しかし、現実は莉彩が考えるほど甘くも容易くもなかったのである。大学の資料を取り寄せて幾つかの希望大学を選び出したものの、三つ受けた中の二つの大学には残念ながら不合格となり、唯一合格した東京の大学には都会に行かせたくないという父の強硬な反対に遭い、夢はあえなく挫折した。
 結局、最終的に選んだのがあの男(ひと)の見たいと言っていたリラの花の咲く北海道にある女子大だった。介護関係に進めないのなら、いっそあの男の愛した花咲く地に行こうと思ったのは、我ながら少し安易すぎたような気もする。
 所詮、自分の理想なんて、この程度のものだ。
 ちょっとしたことで夢を諦めてしまう自分は、何てつまらない人間だと莉彩は当時、少し自棄(やけ)気味になった。
 でも、どこにいてもどんな境遇にあっても、一生懸命に生きている自分をあの男に見ていて貰いたいから―、多分、他人(ひと)のためにできることなら、たとえ何の道に進んだとしても自分にもできることがあるはずだ。
 与えられた仕事を頑張ることにより、何らかの形で社会に少しでも貢献できれば良いのではないかと思うようになった。