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現代異聞・第終夜『行っちゃ駄目』

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■ 結 ■


 糸を引く凍雨は、夜の訪れとともに雪へと変わり始めていた。降り来る白い粉は遠くに望む街並みを白く霞ませ、そびえる建物の影をすり抜けながら静かにさざめいている。泡雪は百合のように落ちかかり、低く寂しい波音を吸い込んでいった。
 雪が降っているせいというわけでもないだろうが──あるいはそうなのかもしれないが──街は驚くほど静かだった。俺が住む街でも一番大規模な病院の五階、整形外科の入院病棟として使用されているフロアの休憩室から見渡せば、遠くに灯る明かりが見える。一度も見たことのないビルだったが、だからといって特別不思議に思うわけではなかった。三ヶ月前の大事故で一時は命を危ぶまれるような怪我をした俺は、以来ずっとこの病院で日々を過ごしているのだ。街並みに多少の変化があったところで、そう簡単に気付けるわけがない。
 体中あらゆる部位を縫い、傷口を塞ぎ、骨を繋いで皮膚を修繕した。
 日を跨いで行われた大手術の連続に、俺は完全に疲弊しきっていた。痛みはもとより、体を自由に動かせない不便さというのは、意外に人の精神を圧迫するものだ。右腕はまだ骨折が治りきっておらず、両足に至っては深刻な後遺症が残るかもしれないと宣告された身としては、せめて命があっただけ儲けものだと自分を慰めるしかない。左手だけで車椅子を操作することにも慣れて、鎮痛剤の副作用らしい凶悪な眠気に苛まれながら、俺は採光用の大きな窓硝子に近付いていった。きいきいと軋む金属音にもすっかり慣れたものだ──観葉植物の脇に車椅子を停めると、改めて雪が降る町を見下ろす。
 ──変わったな。
 何とはなしにそう思う。
 変わったのは街ではなく、街を見る俺の方だ。
 友人を亡くし、大学にも戻れず、日々病院の中だけで生きていく。心が少しずつ鈍感になっていくのを感じながら、鈍化に歯止めをかける術も思い浮かばない。
 ──まあ、それはそれで幸せなんだよな──。
 生きているんだから。
 一命を取り留めただけ──俺は、幸せだ。
 しんしんと降る雪をぼんやりと眺めていると、不意に階下から弾けた笑い声が漏れ聞こえた。
 今日はクリスマスなのだと、今更のように思い返してみる。普段ならこんな時間まで騒いでいると看護師達に叱られるのだが、そこは年に一度のお祭りということで温情的な処置がとられているということだろう。羨ましいとは思ったが、不思議と自分も騒ぎの中に混ざっていくほどの気力は湧かなかった。物心ついたときには祖父母と暮らしていたし、人付き合いが苦手な俺にとって、祭事はどうも肌に合わないことが多い。
 咲き乱れる夜気の上を、華やかなざわめきが滑り落ちていく。
 降り積もる雪は、今まで見たことがない程大粒のパウダースノゥだった。掌に一粒受け止めてみれば、粉のように溶けて小さな冷たさを残していくのだろう。硝子越しに寒気が吹き込んできているのか、体温が下がっていくのがはっきりと感じられたが、それでも俺はまだしばらくこの場に留まろうと決めていた。厚い雲に一筋切れ間が走っているのか、夜空の一片に星くずが振りまかれている。
 ──綺麗だな。
 風景の無意識が完璧になっている。
 寂しげに吹き抜ける風の冷たさと、耳に届く華やいだ声と、ほんの微かに覗き見える月の明るさと。
 そんなものの全てに、俺はどうしようもなく泣き出しそうになった。
 言葉もなく、空に向かって腕を伸ばす。
 精一杯握り締めた掌に、黄金の粒が何粒握られているだろう。
 だがそれらは全てこぼれ落ちてしまうのだ──泣いているだけの人間に、掴めるものなど何もない。
 もっとしっかり掴めないのだろうか。
 せめて星の一粒でも、いずれは全てを押し隠してしまう灰色の雲から救い出してやれないのだろうか。
 自分達が見たり、見た気になっているものは全て、到底手の届かない幸福なもの達の粗悪なコピーでしかないのだろうか。
「……そんなことは──ないよな」
 かぶりを振り、自らに言い聞かせるように呟く。
 思ったよりも言葉に込められた力は強い。我知らず微笑み、俺は車椅子の車輪に手をかけた。ゴム地は今にも凍り付いてしまそうなほど冷えきっている。手袋でも持ってくれば良かったと微妙にずれたことを考えながら、車椅子を前へ通しだそうとした、その刹那。
「──風邪を引きますよ」
 暖かい手。
 柔らかく広がり、髪を梳く。
 気付かない内に芯まで冷え切っていた体に温もりを灯して、彼女はいつも通りの格好で立っていた。
 俺を助けてくれた、
 俺と一緒にいてくれる──俺と一緒に幸せになって、俺と一緒に不幸になってくれる、
 ──たった一人の……大切な、恋人だ。
 鍵子はいつもと変わらないふにゃふにゃした笑みを浮かべ、ゆっくりとこちらに近付いてきた。鍵子は鍵子で松葉杖をつき、左腕を吊っているので、怪我の程度としてはどちらが軽いというものでもない。回復の早さで大きな差がついているのは、きっとささやかな幸運というものなのだろう──鍵子の治りが早いのは、恋人としては素直に喜ぶべきことだ。
「──鍵子」
 洋子、と言いかけて、止める。
 何となく気恥ずかしいのもあるが、それ以上に、鍵子というあだ名に慣れ過ぎてしまったのだ。今更洋子なんて名前で呼ぶと、何だか他人を相手にしているような気になってしまう。勿論本名で呼ぶべきときはそうしているのだが、普段話し相手になって貰っている分には、正直あだ名で呼んだ方が遙かに親しみやすかった。
「……いい加減、入院生活にも飽きてきましたね──私はもうすぐ退院できるらしいですけど。紘一郎さんは?」
「俺はなぁ……とにかくこの車椅子をどうにかしないことには、退院どころじゃないって感じだな。いや、もしかしたらこのままずっと、車椅子生活なのかもしれないけどさ」
「そうなったら、私が面倒を見てあげますよ。車椅子を押すのは、私の役目です」
「凄え意気込みだな。まあ気持ちは嬉しいけどさ……何かお前に背中を任せるのって不安な感じもするんだけど」
「何を失敬なことを言うんですか。可愛い恋人に向かって」
「いや、だってお前、坂道とかで手ぇ離しそうじゃん。悪気なく」
「……まあ、悪気がないんだからいいじゃありませんか」
「手を離すのは否定しないのかよ……」
 苦笑し、車椅子を旋回させて鍵子と正面から向かい合う。
 背中に雪景色を負って、俺達はしばらくの間他愛ない世間話で盛り上がった。新聞に載っていた政治の話、テレビで見たお笑い芸人について──楽しみにしているドラマの続き、売店で毎週買っているパズルの本のこと。本当に些細なことだけど、だからこそ話題が尽きるようなこともない。
 丁々発止と遣り取りをしながら、今こうして呑気に馬鹿話をしていられる幸せを噛み締める。
 あの日──あの衝撃を受けた瞬間こそ、俺達四人を乗せた車がガードレールを突き破り、山の斜面を転げ落ちる大惨事の瞬間だった。俺が見ていた夢か、或いはもっと悪意を孕む何かについては、今のところ鍵子以外の誰にも話していない。信じて貰えるとも思えなかったし、そもそも入院生活を送る身としては、まともな話し相手など鍵子の他にいないのだ。