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瑠璃の海、琥珀の空。

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 カッコウ鳥が鳴いている。実際に鳥が鳴いているのではなく、横断歩道の電子音が鳴っているのだ。カッコウ、カッコウ、とも、パッポー、パッポー、ともつかない音が鳴っているあいだ、人がヌーの群れのようにひしめきあってあくせくと闊歩する。
 人の波。
 雑踏に飲まれそうになりながら、私はカイムから離れてしまわないように彼の脇にぴったりくっついて歩いた。すると彼は左手をそっと差し出して、私の右手を握った。とても優しくて柔らかい握りかた。私は嬉しくって、この手を絶対に離さない、という思いでその腕にしがみつく。いきなり、ぎゅうっと抱きついたものだから、カイムは驚いて私を見て、そして笑った。Cute!と大口を開けて。
 それに対して私はNo kidding.と唇を尖らせる。流暢な日本語を話すカイムの口から思いがけず母国語が出たときというのは、本当にそう思っているからこそだと知っているのに。
 男の腕にしがみついて歩くだなんて。桃子(とうこ)が見たらきっと顔をしかめるだろう。
「他人がやる分には、まあ別に私は何も言うつもりはないけれど、自分は絶対にやらないわ、そんなこと」と彼女は以前言っていた。大学時代の話だ。そのとき私たちは旧棟のしょぼくれた食堂に居た。新棟の方の、焼きたてパンを売っている、ガラス張りの小綺麗なカフェではなく。うどんなどの麺類やカレーや日替わり定食しかない食堂は雑然としていて寒々しいが、人が少なくて安いのが良い。私は人が多くてもお洒落なカフェの方が好きだったのだけれど、見た目に反して中身の女の子成分が著しく欠如した桃子は、そっちの方が好きだったのだ。私たちは会議室にあるような机に向かい合い、パイプ椅子に座ってお揃いのきつね蕎麦を啜っていた。
「絶対にやらないの? 本当に? 柊也(しゅうや)さんの腕に腕を絡ませたりとか、一切ナシ?」
 桃子には柊也さんという、高校の頃から付き合っている恋人が居た。
 ただし歳が十ほど離れていて、桃子が高校生のとき柊也さんはすでに大学院を卒業していた。でも、だから柊也さんがロリコンだったのだとは私は思わない。きっと高校生の桃子は、今と同じくらい、いや、今より実年齢が低い分だけ余計に、色っぽかったに違いないから。そんな二人がどんなふうに恋人になったのか、話に聞く以上のことを、私は知らない。大学以前の桃子を私は知らないのだ。
「ないわよ。けどまあ、ときどき、柊也の可愛いお尻を触ることくらいならあるかな」
 私は飲んでいた汁を危うく噴き出しかけた。
「なにそれ? どういう意味よ?」
「ほら、街を歩いているとよく、女の尻だとか股だとかに手を持っていっていちゃつきながら歩いている頭の弱そうなカップルいるでしょ、ああいうのが目の前に居てたりすると、触発されてついね」
「触発されて同じ頭の弱い奴になっちゃうってわけ?」
「それは違うわよ、満璃魚(まりな)。私は対抗しているの」
 桃子は涼やかでかたちの良い眉をきゅっと引き締めて言った。「そうすることで、ああいう頭の弱い奴らに対抗しているのよ」
 桃子は高校時代、集団無視を受けて、友達がいなかった。桃子は美しすぎたのだ。見目だけではなく、人生に対する姿勢そのものが。
 普通からはみ出てしまった者は孤独だ。それはたぶん、冬空の薄青さと同じくらいに。
 桃子は私と出会う前、水泳をしていた。高校三年の夏、交通事故に遭って足が上手く動かなくなるまではずっと。普通に生活する分には支障がない程度には回復しているが、泳ぐことはもうできない。私が会った頃にはもう、桃子は水泳ではなく声楽をやっていた。
 水泳について桃子は一度だけ、語ってくれた。水泳は孤独なスポーツだと言っていた。応援する声もすべて、水の膜を介してしか聞こえない。自分と、その他の人たちとのあいだに、水の膜がある。孤独な戦い。
 柊也さんはその頃からずっと桃子の傍に居るのだ。水の膜の中を、勇猛果敢に、たったひとりで孤独に泳ぎ続けていた桃子を、柊也さんだけは知っている。
 そして桃子は今はもう、孤独ではないのだ。