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舞うが如く 第3章 7~9

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文久3年(1863)3月中旬、
浪士組が会津藩御預となった頃から、
前川邸が、本格的に屯所として使われ始めます。
詰めかける隊士たちのために、前川荘司一家は、油小路六角にある
前川本家の両替店への避難生活を余儀なくされました。

 こうして前川邸を手に入れた新選組は、
討幕派からの守りを固めるため、次第に屋敷に手を加え城塞化していきました。
屋敷を取り囲む塀のほとんどを板塀から土塀に改築し、
長屋門には監視のために、元は西側にしかなかった出格子を
東側にも取り付けました。



 そして、母屋の納戸からは、
坊城通りへ脱出するための抜け道も作られました。
文久3年(1863)9月18日、土方らは蔵の窓から、芹沢一派が島原から帰還し、
部屋の明かりが消えるのを見届けてから八木邸に討ち入ったといわれています。
翌日の芹沢鴨の葬儀も、前川邸で行われたと伝わっています。


 それから間もない9月26日、
長州の間者・御倉伊勢武と荒木田左馬之介が、
前川邸の縁側で月代を剃っていたところを、斎藤一と林信太郎に斬殺され、
楠小十郎は、門前で原田左之助に殺害されました。


 その年の暮れ、芹沢派の生き残り・野口健司が
前川邸の綾小路通に面した一室で切腹します。
明けて元治元年(1864)6月 5日、
池田屋事件の端緒となった古高俊太郎への拷問が
土方の指揮のもと、前川邸の土蔵で行われたのは有名な話です。



 そして翌元治2年(1865)2月23日には、
総長・山南敬助が恋人・明里と格子戸越しに最期の別れを交わした後、
坊城通に面した一室で切腹します。


 このように、新撰組をめぐる事件だけ追ってゆくと
血生臭い出来事ばかりがクローズアップされがちですが、
普段は、隊士達の平穏な日常がありました。


 雨の日は土間で、剣術の稽古をしたり、
晴れの日は土蔵横に砂山を築き、砲術の訓練をやったり、
玄関前で誠の旗を旗めかせたり、広い部屋で上下の区別なく雑魚寝をしたり
夜、厠へ行く時、寝ている隊士の足を踏みつけたり、
蹴つまづいて大騒ぎになったり、はたまた酒に酔って出窓に斬り付け刀傷を残したり、
雨戸に落書きを残したり・・・。


 そんな思い出が沢山詰まった前川邸を、
新選組が「人数が増えて手狭になったので西本願寺に屯所を移転する」
という理由で出て行ったのは、
元治2年(1865)3月10日のことでした。