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Over The Rainbow

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あいつは、本当にろくでもない女だ。
 毎日だるそうに寝転がって、必要最小限のこと以外、何一つまともにしようとしない。「奥さん」だからという理由だけで、あんな女があの人の隣にいる。理不尽すぎるそれが、あたしにはどうしても許せない。だから、あの人が出かけている昼の間に、水をこぼしたり、引っ掻いたり、服に爪を立てたりして、精一杯あいつを困らせてやるのだ。
 もしもあたしが人間だったら、あんな女なんかより余程いい奥さんになって、あの人を喜ばせてあげられるのに。だってあたしは、あの人のことがこんなに大好きなんだもの。
 あたしが人間だったら。
 そう、あたしは猫だ。
 まだ目も開かないうちに迷子になって、溝に落ちてビービー鳴いているところを、あの人に助けてもらった。あの人は、暖かい掌にあたしをすっぽりと包み込んでくれて、体を拭いてくれて、ミルクをくれた。満腹になったあたしが喉を鳴らしただけで、あの人は喜んでくれた。
 それからずっと一緒にいたのに、ある日あの人があの女を、あたし達の家に引き入れたのだ。
 あたしの幸せな日々は、すっかり変わってしまった。
 あたしは猫だから外に連れて行っては貰えない。だけど、あの人が留守の間は、一人でゆっくり昼寝をしていられた。なのに今は、あの女が同じ屋根の下にいるせいで、ずっと逆毛が立ちっぱなしで、気が休まる暇さえない。
 それでも、あの女は、あの人が選んだ人なのだから。
 百歩譲って、そう考えたこともあった。
 なのにあの女と来たら、あの人が話かけてもまともに返事もしない。昼頃にのそのそ起きてきて、その辺りにある食料を食べて、また寝てしまう。
 かろうじて洗濯はするようだけど、取り込むところで力尽きて、ぐしゃぐしゃのまま放り出す。夕食の買い物はいくけれども、帰ってくれば、また寝てしまう。
 もしもあたしが人間だったら、あの人の為に美味しい食事と清潔な衣服と整った部屋を、いつでも用意してあげるのに。そして休日には、あなたと腕を組んで、あなたの行きたがってた街に二人で出かけるのに。
 あの女のように、私の人生が上手く行っていれば結婚などしなかったのになんて、そんな冷たい失礼な事は、絶対に言ったりしないのに。
 だけどあたしは猫なので、そんなことは、何も出来ない。あたしに出来るのはやっぱり、彼の膝の上で喉を鳴らして聞かせるくらいで、それも最近は、あの女がいるせいで、やってあげることも出来ない。
 もしもあたしが人間だったら、あの人に言ってやるのに。
「あたしの方が、余程あなたを愛してるわ」と。
 でも、例え人間になれなくても、人の言葉が話せるなら、あの女にこれだけでも言ってやりたい。
「お願いだから、あの人を大事にして。あたしは猫だけど、あなたは人間なんだから、それくらいのこと出来るでしょ?」と。
 それでもやはりあたしは猫で、人の言葉なんて話せないし、ましてやあの人の世話も出来ないので、せめて洗濯物の山をかき乱して、食べ物をこぼして床を汚して、あの女に思い知らせてやる毎日を送っているのだ。


 あの人がいつものように出かけた後、ベッドの上であの女が体を起こした。あの人が用意したテーブルの上の食事を見て、あの女が呟いた。
「……死んでしまいたい」
 時々あの女は、その言葉を口にする。あたしはそれを聞く度に、(何を言ってるんだろう、この女)と思う。
 あの女が、「今日も具合が悪くて何も出来なかったの、ごめんなさい」と謝る度に、そしてあの人があの女を慰める度に思う。
 謝るくらいなら、ちゃんと起き上がればいいのに。あたしが人間ならそうするのに。
「死にたい」
 あの女がそういう度に、あたしは思う。
(だったら早く死ねばいいのに)




 ある日、けたたましい音で電話が鳴った。あの女がのそりと起きて、受話器を取った。
「……あ、お父さん?」
 あの女が緊張した気配がする。離れているのに、受話器から、野太い怒ったような声が漏れ聞こえてくる。
 あたしの嫌いな声。
 時々かかってくる、あの女の父親の声だった。
「ええ、大丈夫。あの人は元気。もうすぐ帰ってくると思うけど。……迷惑を余りかけるなって。……うん、判ってる」
 受話器の向こうの勢いに押されるように、あの女の声が、どんどん小さくなってくる。
「うん、でも、……それはそう、……うん」
 受話器の向こうの男が、いつものように、あの人の気の弱いところや優しいところを馬鹿にするような言葉を口にする。
 あの女はその言葉に反論しようとしない。ただ目を伏せて、その時間が過ぎるのを待つだけなのだ。それがあたしには我慢出来ない。
 あたしが人間だったら、そんな言葉、全部言い返してやるのに。
 あの人は優しい人よ。それの何が悪いの?って
 だけどあたしは猫だから、人の言葉も喋れなければ、人間の男の野太い声も苦手で、だからただ心の中で、あの人の弁護をし続ける。あの人が大好きで、あの人に救われたのだから、あたしはあの人の味方をしつづける。
「うん、わかった。それじゃあ電話切るね」
 あの女は受話器を置くと、いつもよりも大きな溜め息を、一つついた。そして窓の外を見た。
 いつもは、あたしが落ちないようにと閉められているベランダの鍵が、何故か今日は開いている。そういえば朝から、「外はすっかり秋の空気だ」と言いながら、あの人が風を入れていた。急いでいたあの人が鍵を閉め忘れたのだ。
 あの女が、窓に歩み寄っていく。
「私なんていない方が……」
 あの女の呟きに、心の中で「その通りね」と返す。
 判っているなら、早くあの人の前から姿を消してしまえば良いのに、この女は、何をぐずぐずしているのだろう。
 あの女がベランダから身を乗り出して下を見た。
(早く飛び降りてしまいなさいよ!)
 あたしの言葉が聞こえているように、あの女が身を乗り出す。
(さあ、早く!)
 その時、あたしの耳に、聞き慣れたあの人の車のエンジン音が届いた。あの人の車の音ならあたしは、遥か遠くからでも聞き分けることが出来るのだ。
 その時あたしは、あたしがここから落ちてしまいそうになった時の、青ざめたあの人の顔を思い出した。
 そう、あの人は優しい人なのだ。
 あたしみたいな野良猫が、溝に嵌まって死んでしまうのを見捨てられないくらいに、それくらいに優しい人なのだ。
 この女が本当に飛び降りてしまったら、優しいあの人は、どれだけ悲しい顔をするだろう。
 だから、この女は死んではいけない。
 あたしは今にも飛び降りようとするあの女に飛びかかると、その手に噛み付こうとした。そんなあたしの動きに驚いた女が、身を捩らせた。
 あたしの体は、ベランダの外に、放り出された。
 遥か下に、建物の中に入ろうとする、あの人の姿が見えた。次第に強まってくる、目も開けていられないくらいの風の中で、あの人がどんどん大きくなっていく。
(ねえ、あたし、あの女のこと、やっぱり大嫌い。でも、あなたの為に、あの女を助けたのよ)
 あたしは猫なので、言葉は通じない。けれど、あたしはそう言うと、あの人の胸に飛び込んでいった。

作品名:Over The Rainbow 作家名:西_