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かがり水に映る月

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01.その夜に、僕は落ちてはいけない恋をした(1/3)



――だから僕は――その人を置いて、逃げ出した。



時が止まっていた。
もちろん、事実ではない。無数と世に存在する時計は確かに歪みなく針を進め続けていただろうし、『その場』にだって時間は流れていたはずだ。止まっているのではないかと錯覚させるほど、月が空の上の上を目指したゆたうより遅く。
それが、今の『その場』だった。
草原(くさはら)を、冬の訪れを告げる、それでもまだ刺々しさのない心地のいい風が吹き抜けている。
葉と葉が擦れるざわめきは、残響するように波を描きながら止むことなく繰り返す。

「……っ、は……」

囲むように濃い緑に包まれ、そこだけが切り取られたように開けた草原に、一人の青年がふらりと立っている。
目の前の光景を受け止めきれず、見開かれた目は驚きに満ち、倒れそうな身体を必死に自立させていた。
誰なのか。
いや。
視界の中で、満ちた月を背に立っているその人は――何なのか。視線を交差させ続けるうちに、錯覚と混乱と存在感、さまざまなものが一緒くたになって思考という岩壁に荒々しく波をぶつけてくる。
青年より少し離れた位置に、ちょうど開けた草原の真ん中の辺りに、それは立っていた。
月を背負って、青白くそして柔らかに照らされながら、そこに在った。
振り向きになっている体勢。おそらく、青年がその場に現れるまでは月を見てでもいたのだろう。
黒く長い髪が、波打って風に揺れていた。顔立ちは平坦であったが、神秘的さ、非日常さが風に乗り空気中に満ちる。
風の吹くままになっているのは、衣服も同様だった。胸下の切り替えの白いリボンを除いては、黒一色に彩られたドレスにも似たボリュームのフレアなワンピース。内部に空気を孕んでいるため、いつも以上に膨らんでいるのかもしれない。
それは、まるで喪服のようだった。
同時に、婚礼の花嫁姿にも似ていた。
「……」
草原に立ち尽くしたまま、振り向いて青年を見つめるまま、その人の形は動かないし、喋ることもない。
時折何かを言いたそうに唇をつぐんだり上唇と下唇を離して発声しかけるが、息すらも離れて立っている青年には感じとれない。

――草原というこの世に、二人しか残されていない。
時が止まっていた。夜はこのまま明けず、月は満ちたままで空に在る、一体どこまでが現実でどこからが夢なのか。

夜を楽しみ出歩く散歩人。
違う。
たまたまこの草原に迷い込んだ通行人。
違う。
これ以上否定すると、相手が人でないものになってしまう。
青年は時計を所持していながらも、それと遭遇してから時刻を見ていない。だが、最後見た時は午前二時を過ぎていた――低い山とはいえ、近所の人間でないと迷う規模の森の中に女が一人踏み込む時間帯ではない。
それに、この草原の存在を知っている者は地元民の中でもごくわずかである。
誰かが手入れしているわけでもなく、樹木の生え揃わない開けた一帯。草も、背の低いものしか茂らない。
現実を忘れたり、月を見るのに最適だ。
だから、今日もこうやって足を運んだのだ。
まさか、先客がいるなど。
それも、それが人ではないなど。

人ではないという証拠はない。そもそも、一言も会話を交わしていないのだ。相手が誰なのかもわからない。
だが、瞳が交差した瞬間、心が大きく動揺し跳ねた。
近づいてはならない。
関わってはならない。
逃げなければならない。
そんな、第六感が発する絶え間ないシグナル。この日、この時、この場所で、自分は彼女と出会ってはいけなかった。
婚礼の儀にもよく似た、美しい葬儀を邪魔してはいけなかった。
混乱が全身を行き渡り神経を麻痺させる。動けない。逃げられない。足が、少しも動かない。

「……、……」

それが。
自分の名前を、呼んだ気がした。記憶の中に強く残存する誰かと、まったく同じ声で。
逃げろと警鐘を鳴らすと同時に、強く惹かれる本能。
そうか。
逃げられないのは、動けないのは、記憶に焼きついたそれが――

まばたきする暇もないほどに突然だった。草原に立つそれが、片手に握っていたものを風に任せ手放した。
月明かりに照らされ、それが束にされただけの簡素な花束――それも、全て真っ赤な薔薇であったことを青年は知る。
タイミングを見計らったように吹く強い風。束の形から崩れた薔薇達が少しの間だけ風に乗り、草原に落下する。
青年は、そのさまが、薔薇ではなく、頭ごと花を落とす椿のように見えた。
処刑されて、鮮血を散らし自身もそれに染まる罪深き者達の末路。
と、その時。
それの視線が、青年から外れた。一瞬だけではあったが、その一瞬が時が停止しているこの草原では重要なファクターになる。
ざ、ざざ、と草を踏みながら後ずさって。
くるりと身をひるがえし、青年はその場から逃げ出した。道中、後ろを振り向くことは一度もなく。
追いかけてくる足音も、なく。

焼きつく記憶が僕を苦しめるから。過去が僕を追ってくるから。僕は、どうあってもそれから逃げ切らないといけないから。

――だから、僕は……その人を置いたまま、逃げ出した。


作品名:かがり水に映る月 作家名:桜沢 小鈴