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新月

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「まれに逢夜は現か夢か——」
「前田屋さん」
「おゝ、来たか千之丞」
 座敷に通された房之助の元へ千之丞がやって来た。
 転けた時の名残は既にない。
 あの「前田屋」の次男坊が来たときて、数人の舞台子が障子の隙間から座敷を覗いている。障子の向こうから時折鈴が鳴るような笑い声と囁きが聞こえたが、房之助は聞こえない振りをした。
「アノ……助けていただいた上にお座敷にまでお呼びくださり、嬉しいことばかりで胸が詰まりィす。頭を下げることしかできんせんが……」
 眼前で三つ指をつく千之丞の様子に、房之助が片手を挙げて首を横に振る。
「言ったろう。観音さまのお導きよ。気にすんねエ。それより千之丞、もっとコウ、楽にしつくんな。おれァお前のことを詰ったりしねえもの」
「……あい。重畳でありんす」
 房之助の言葉に、千之丞がゆっくりと姿勢を正座から横座りに変える。その、どことなく陰のある動きが艶かしい。背後の障子がぴたんと閉じる。
「それにしても、千之丞」
「アイ」
「お前、なぜにぎこちねエありんす言葉を遣うんだエ」
 房之助の問いに、銚子に手を伸ばしていた千之丞の手が止まる。長い睫毛を静かに伏せて、少し、困ったように首を傾げる。
「こっちィ来たばかりかエ」
「……在所が京でありんすから、訛りがなかなか抜けんせん。江戸っ子ァ上方言葉を嫌がりィす」
 成る程、と思った。
 よくよく巡らせれば、単語の抑揚がちとおかしい。上方の訛りだったかと納得しつつ、房之助はこれ以上千之丞に気を遣わせまいと盃を軽く掲げて酒を注がせる。
「おれァ生まれも育ちも江戸なんだが、一度上方言葉を聞いてみてェとつくづく思っていたのヨ。折角だ、千之丞、今から上方言葉で喋るってのなァどうだェ」
「エッ——」
「言ったろう。こかァおれとお前の二人切りだ。いゝだろう」
「……へえ……」
 妙な頼み事に気恥ずかしくなったのか、銚子を置いた千之丞が袖で顔を隠してしまう。一つ動く度に、薫き染められた香が文様になって浮き出るような錯覚を抱かせる。
美しい役者だ、と房之助は思った。
「では……少しだけ、打ち解けさせてもらいます。……なんや、言葉いうんはけったいなもので、昔から馴染んでも、上から別の言葉がかぶさるとどおにもいけまへん。白雪が降って地ぃが白くなるように——うちの言葉もけったいなものにしかならへんから……ドウゾおかしゅうなってたら笑わはって。頼んます——」
 途端に流暢になった千之丞の肩に、房之助が手を伸ばした。無性に触れたくなったのだ。房之助は千之丞の細い肩の感触を確かめながら、江戸言葉にはない悠長さと可憐さこそが千之丞の持つべきものであると思った。
「なんかコウ……聞いてるとコンニャクみてエな感じがすらぁな」
「へえ、お坊ちゃんの——」
「アイ待った。おれァ房之助って名前がある」
「堪忍しとくれやす。——ほな、房之助はんのようにずうっと江戸に住んではったら、上方のことばはえろういやぁな風に聞こえるかもしれまへんなあ」
「ちげぇねェ。——だがおれァ、その……なんだ。コンニャクはきれえじゃねえわ」
 気遣いを見せる房之助の言葉を聞いた千之丞の表情に、幾らか申し訳なさを含めた笑みが浮かぶ。千之丞の肩を擽るように滑る指先が、音も無く振袖の肩に施された文様を辿る。その指の動きに、千之丞の目元が緩んだ。

「家族は、息災か」
「……へえ。お陰さんで、みんな——」

 呑気な、けれど不躾なことを問いながら、房之助は不意に千之丞の手首を掴んだ。
 細い。年は自分とそう変わらないか、二つか三つ下であろう。この細い体があの豪奢で派手な衣装と鬘とをつけて踊るようになるのかと思う。そんな房之助の心中を察したのか、千之丞は反対側の手で房之助の肩に触れた。

「うちも房之助はんみたく、男らしゅうなりとおす」
「冗談言っちゃあいけねェ。女形ってモンはなよやかじゃなけりゃ。お前、舞が達者なんだってな。先刻、おれが草履を脱ぐや否や、四方八方から『千之丞は舞が達者』と聞こえたぜ」
「いややわぁ、誰が言わはったんやろ……」
「庭の、雪兎」
「もお、いけず——」

 応酬の合間、手首から腕を離した房之助は、その腕を千之丞の肩に再び回した。
 千之丞は、身を任せるように横座りのまま、左肩を下げて房之助の胸に凭れている。
 どちらともなく発した冗談は、二人の間にさざ波のような笑い声を生み、その笑い声に反応したかのように灯籠の灯が揺れた。
 深川の芸者と一緒では、決して味わえぬ摩訶不思議な、淑やかな空気。
 無論、この空気を齎しているのは千之丞である。

「……ならヨ、千之丞」
「へえ——」

 ぐい、と房之助が千之丞の腕を掴んで背中を抱いた。体勢を崩し、房之助の左腕に背中を預けることになった千之丞の、夜のような虹彩が微かに大きさを変じる。

「——なら……」

 直ぐに言葉が出て来ない。
 コンニャク病が移っちまった、と、房之助は思った。

 荒事と呼ばれる江戸の歌舞伎に対し、上方の歌舞伎は和事と呼ばれる。


「……お前、おれと、南座ァ行こうか」
「み、南座?」
「おうよ。二人で南座のコンニャク芝居観てヨ、清水にお参りよ。悪かァねえだろイ?」


 千之丞の頬が上気した。
 房之助が、千之丞の顔に顔を寄せていく。


 部屋中の時間が止まった。
作品名:新月 作家名:雪緒