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Slow Luv Op.1

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〔木曜日〕


「太陽が黄色い」
と、悦嗣は独りごちた。
 六月に入ったばかりだというのに、気温はすでに夏である。「太陽が黄色い」と言う比喩は、決して大げさなものではなかったが、彼の場合は、極度の寝不足がその言葉を生み出したのだ。
 明け方までピアノの前にいた。居間のソファでうたた寝していたら、夏希のやかましい朝の身支度で邪魔をされた。午前十時に彼女が家を出て行き、やっと熟睡。しかし感覚的にその睡眠時間は一瞬だ。
 練習用にと用意されたスタジオに、十四時という約束だった。もっとも太陽が黄色い時間である。だからと言って、一時間近い遅刻の言い訳にはならなかった。
「遅れてすまん」
 スタジオの重いドアを開けるなり、悦嗣は言った。
 しかし部屋の中には英介の姿はなく、中原さく也がピアノの傍に立っていた。
「え…っと、エースケは?」
 顎の下からヴァイオリンを外し、
「夜まで来れない。代わりが俺」
抑揚の無い声が答えた。それから壁にかかる時計を見やる。
「エースケから、二時の約束だって聞いてたけど」
 これが中原さく也か。悦嗣はあらためて彼を見た。
 ザルツブルグから十三、四年経っている。あの頃の顔は覚えていないが、当時の芸能界が追いかけまわしたことは、納得出来た。夏希が言った通り、美形に分類されるのだろう。右目の下にある小さなホクロが、印象的だった。
 そのホクロに目が釘付けになった時、彼と目が合った。
「寝過ごしたんだ、ごめん」
「じゃあ、他のパートは俺が弾くから、第一楽章から通す?」
「お願いします」
 ピアノの椅子の脚元にカバンを無雑作に置き、中から楽譜とペンを取り出した。
 スケールでハンマーの重さやピッチ、鳴り具合を確かめる。今日のピアノは軽く、ピッチも高めで華やかな音色がした。
 Aを鳴らすと、さく也がチューニングを始める。
 前回は合わすのでいっぱいいっぱいだった悦嗣は、第一ヴァイオリンの音など覚えていない。中原さく也はザルツブルグ以後、姿を消してしまったので――と言うより、日本で演奏しなかったので、生で演奏を聴くのは初めてだった。
 第一楽章は第一主題のユニゾンから。今回のクインテットは、この第一主題をたっぷり聴かせる。
 三拍の空振りで入りのテンポを示し、中原さく也の弓が弦を滑った。




 悦嗣の耳は、いつの間にか観客のそれになっていた。第一楽章第二主題の後半に差し掛かった時、我知らず彼の手は止まる。
「なんだ?」
と言う、さく也の問いに、
「なんで?」
と、悦嗣は疑問形を発した。
 なぜソリストではないのか。これだけの腕を持っているのに、とつづくはずだったが、言葉にならなかった。
「ごめん、見失った。もう一度、セカンド・テーマからいいか?」
 二人はページを一つ戻した。
 中原さく也の音色は、圧倒的な力で悦嗣の耳を惹きつける。
 ピンと張った艶やかな、そして迷いのない音。そこから紡ぎだされた旋律に、指を止めて聴き入ってしまいたい誘惑を、悦嗣は感じていた。
 と同時にプロの力を思い知る。このヴァイオリンに、自分のピアノは対等ではいられないことを。
 一楽章終わるごとに簡単なチェックを行うが、それはほとんど必要なかった。演奏中、タイミングを計りたい所で悦嗣がさく也を見ると、弓が、音が、応えてくれるからだ。 チェックはその時のことを書き付ける、ちょっとした『間』でしかない。
 一度通した後、休憩が取られた。
「すごいな」
 パラパラと膝に乗せた楽譜をめくりながら、悦嗣は呟いた。
 ペットボトルから直接水を飲んでいたさく也は、悦嗣を見る。
「なぜソロでやらない? それだけ弾けるのに。それともあっち(ヨーロッパ)じゃ、ソロで回っているのか?」
 スタジオ内は禁煙なので、悦嗣は火を点けずに煙草を咥えた。
 尋ねてからしばらく間が空く。それにしても中原さく也は表情の乏しい男だな…と思った。
「寂しがりやなんだ」
 その表情の無い顔で、さく也は答えた。
 今のは冗談なのだろうか?
「冗談」 
 無言の疑問符への答えは、一瞬の沈黙の後。とても冗談を言った口調には聞こえない。
「真顔で言うなよ」
「笑うのに慣れてない」
「それも冗談か?」
「これは本当」
 悦嗣はあきれたように息を吐いた。
 こいつは俺をからかっているのか…とも思った。こちらに端正な横顔を向けて、彼はペットボトルをラッパ飲みしている。
 そう言えば、前回の印象がない。
 第一ヴァイオリンが若い東洋人だったことは覚えていた。妹の夏希がその名前を口に出したので、認識したくらいだ。演奏では第一ヴァイオリンの音をよく聴いて弾いたつもりだが、自分のことで必死だったのと、今回ほど音のインパクトはなかったように思えた。
――本当に上手いんだ、こいつ。
 確かにアンサンブルでの演奏も、プロの中では水準以上だろう。しかし今日の演奏を聴いた後では、それすらも平凡な演奏に感じられる。
 中原さく也の才能は、ソロで遺憾なく発揮される性質のものだ。
「セカンド・テーマで止まったのは、見失ったんじゃないんだ。聴き入ったっていうか、聴き惚れたっていうか。あの後、引き摺られるのを抑えるのに苦労したぜ」
「そうなのか? そんな風には聴こえなかったけど」
「俺は素人同然だからな、プロの演奏に圧倒されるのはあたりまえだけど、それを差し引いてもすごいと思うぞ。ずっと聴いていたかった」
 さく也は少し首を傾げている。相変わらず無表情で、悦嗣の言葉に何のリアクションもない。
「ま、聞き飽きた言葉かも知んないけどな」
 煙の立たない煙草にそろそろ我慢出来なくなり、喫煙フロアに行くために悦嗣は立ち上がった。ドアに向う足を止め、振り返らずに言った。
「聴いていたかっただけじゃない。もっと本腰入れて音楽やっとけば良かったって後悔した。今の俺じゃ、子供の発表会クラスにしかならないってのが、悔しい。その音に対して、ほんと失礼だよな。…一本吸ってくる」
 



 英介がスタジオ入りしたのは夕方の五時過ぎだった。あとの二人も一緒で、第二ヴァイオリンのミハイルが、『男気』と漢字で書かれたTシャツを嬉しげに広げて、さく也に見せる。
「浅草に連れて行けってうるさくって」
 無邪気に喜ぶミハイルを見て、嬉しそうに英介が言った。
「さく也のレクチャー、よくわかったろう? 俺が口で言うより、あいつのヴァイオリン聴く方が早いと思って」
 交代した理由を言い分けする。いつもの笑顔で。
 「まあな」と短く答えて、悦嗣はさく也の方を見た。
 仲間と一緒になっても、無表情さ加減は変わらない。悦嗣に人見知りしていたわけではないらしい。
「じゃ、成果を見せてもらおっかな」
と英介はケースからチェロを取り出す。ウィルとミハイルも自分の楽器を持って、ポジションについた。
 最後に位置に着いたさく也が、悦嗣を一瞥する。応えて悦嗣はうなずいた。
 前回は言葉にして『ずたボロの出来』だった。『止まらなかった』ということなど、評価されるに値しない…と、悦嗣は思っている。中一日とは言え、同じ音では許されない。
 新たな六つの耳はすでに、第一音を待ち構えている。期待とはあきらかに違うプレッシャーを発しながら。
作品名:Slow Luv Op.1 作家名:紙森けい