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ベランダの客人

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 午前七時を告げる目覚まし時計のアラーム音を平手一つで黙らして、彼女はゆっくりと身体を起こした。ベッドの上で座り込んでぼやける視界を正すように目を擦る。それから左前方にあるガラス戸に視線を向けた。若葉色のカーテンの隙間から朝日が室内に差し込んでいる。昨夜からの雨は上がったらしかった。
 手を組んで腕を伸ばす。凝り固まった肩の筋肉が少しだけ解れているのを確認して、彼女はベッドから降りた。休日の朝はいい。堅苦しいスーツも、窮屈なパンプスもいらない。ただ時間だけがそこにあって、くたびれたルームウェアのままゆっくりとそれを堪能できる。その揺るやかさが彼女は好きだった。
 偏った布団をそのままに、ガラス戸の方へと歩み寄った。カーテンを勢いよく開けば、レールを滑る小気味のいい音。同時に目映い光が視界を白く染めた。反射的に目を閉じた。心地よい暖かさを感じながら何度か目をしばたたいて明るさにならす。
 そうしてようやく視界がはっきりしてきた。ガラス越しに雲一つない青空が続いていた。雨の前よりも少し青が濃くなっているようだ。
 鍵を外してガラス戸を開ければ、半畳ほどの小さなベランダに続いている。胸の高さまでの塀に囲われたそこに、鉢植えが一つ。一メートルと少しまで育った月桂樹。雨の名残を葉の端々に乗せて艶やかに色付いていた。今日は一段と緑が鮮やかだった。
 そっと手を伸ばして葉の一つに触れた。水滴を拭うように指を滑らしてみる。思ってたよりも冷たくないそれに季節を感じながらふと視線を下ろせば、煉瓦色の鉢植えに何かが付いているのに気が付いた。
 彼女はその場で膝立ちになりそれを見た。縁の上にほんの一センチくらいの薄茶色がかった丸いもの。薄い貝のような殻に、外から中央に向かって螺旋を描く文様。かたつむりだった。
「ああ、もうそんな時期なんだ」
 殻の上に葉から滑った滴が一粒落ちた。水滴が跳ねて散る。それが刺激になったのか殻の下からかたつむりが顔を出した。まるでなにかを探すかのように二本の触角を動かしていた。なぜだか頬が緩む光景だ。ふと懐かしい歌を思い出して小声で歌ってみる。
「でーんでん、むーしむし、かーたつむりー」
 かたつむりは植木鉢の縁を辿って動き出した。ほんの少しだけ進んだところで止まり、また動きだす。時々触角を動かしている。この子はどこから来たんだろう。壁を伝って上がって来たのかな? わざわざ三階まで?
「おーまえの、あーたまは、どーこにあるー」
 彼女片手を伸ばして殻をつついた。途端、かたつむりは殻に籠もってしまった。もう一度つついてみれば、再び顔を出す。そしてまた触角を動かしていた。
「角出せ、槍出せ、あたまー出せー」
 歌い終わりにもう一度つついて、彼女はふっと笑みを浮かべた。そういえば昔、小学校の帰り道でよくかたつむりを見たっけ。梅雨の時期に紫、陽花が一杯咲いた庭がある家の、白い塀にかたつむり。懐かしいなぁ。
「あれからもう随分経ったなんて……」
 それまですっかり忘れていたというのに思い出すと急に時間の経過を感じる。不思議な感覚だった。
 かたつむりは再び動き出してゆっくりとベランダの壁へと向かっていた。今度は止まる気配もない。どうやらここを離れる気らしかった。
 彼女は一度膝を叩いて立ち上がった。ガラス戸を半分ほど閉めたところで手を止めた。まだちまちまと進んでいるかたつむりに視線を落として柔らかく呟いた。
「また来てね」
作品名:ベランダの客人 作家名:庭床