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拝み屋 葵 【壱】 ― 全国行脚編 ―

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 *  *  *

 松井の顔には青痣が出来ていた。
 実力行使に出た松井が、実力で退けられただけのことだ。
「十年早いねん」
 松井は雪が残る道端で正座をさせられている。
「事情があんねやろ? ちゃんと話しぃや」
 顔を上げた松井の目からこぼれる涙は、溜まっていた悔し涙か、たったいま湧いて出た嬉し涙か。
 松井が顔を上げると同時に晴れ間が差した。天気は回復に向かう様相だ。
「おったは次の子供がおらねすけ、なしてでも子供が欲しい。らすけや、嫁を探して探し回ってついに見つけたんらろも、逃げられてしまったんら」
「なんでやのん?」
 松井はただ首を振るだけだった。
「マリッジ・ブルーっちゅうやつかいな」
「わからね。しかも、買った宝石やらも全部無いんらよ」
「うあ……」
 葵は絶句する。
 化け狐の嫁なのだから、相手も化け狐である。
 つまり、松井は正真正銘の女狐に騙されてしまったのだ。
「笑われへんやんか」
「親戚一同大喜びらすけ、逃げられたなんてとても言えね。式は明後日なんろ」 雪と涙と鼻水で制服の袖はぐちゃぐちゃになっている。
「しゃーないなぁ……」
「……! 子供産んでくれらすか!?」
「んなわけあるかーい!!」
 かなり強めの裏手が松井の肩にビシリと入る。
「式は中止や。こないなことで見栄張ってもつまらんやろ」
 松井はがっくりと肩を落とす。
「誰かをムリヤリ連れて来て身代わりにしようなんて考えてはるんやったら、ウチはそれを見逃すわけにはいかへん。諦めんと新しい嫁はんを探すんやな。ほな、ウチは帰らせてもらうわ」

 その場を立ち去ろうとした葵に、鋭い殺気が向けられた。
 フンフーンと鼻唄でも歌いながら、きつねうどんでも食べて帰ろうかなどと腹具合に相談しかけたその瞬間だった。
 松井の仕業ではない。
 彼は心を入れ替えて新たな嫁探しを始める決意を固めている。

 葵はゾクと背筋に走る悪寒を無視できなかった。
 強い憎しみの念を持った、人にあらざる者の放つ殺気、そして視線。
 接近に気付かなかった自身の未熟を呪う暇さえも惜しんで周囲の状況を探る。
 雪で人通りが少ないとはいえ、直後に控えている昼食の時間になれば俄かに人通りが生まれることになる。
 相手は尋常ではない殺気を放っている。後先を考えていない剥き出しの感情はその度合いを更に強いものに変え、葵の背中に突き刺すように送り続けている。
 一つ、心臓がドクンと強く鳴る。

 両の指は自在に動かせるか? 応。
 この寒さの中でも存分に動けるか? 応。
 空腹ではないか? 少々。

 覚悟はいいか?

 ―― えぇよ、やったるで

 葵は相も変わらず送られ続けている剥き出しの“殺気”に向かって振り返った。


「きぃぃぃぃーーー!!!」

 金切り声が空に吸い込まれていった。
 ついでに川の向こうにある麒麟山に跳ね返って山彦となる。

「健太郎さん! その女は誰よ! 誰なのよーー!!」

 開いた口が塞がらない、とはこのことだ。
 葵が戦闘態勢で振り向いた瞬間、運転席に乗り込もうとしていた松井が殺気を放っていた何者かを振り返ったのだ。

「美奈子さん!? なーしてこんがとこさに!?」
「きぃぃぃぃーーー!!! どうしてですって!? 見られて困ることをしていたのはあなたでしょう?」
 微妙に話が噛みあっていないのは興奮しているからだ。
 先程まで葵に向けられていた殺気は、いまは松井に向けられている。松井が平然としているのは、殺気の種類がそういう類のものだからだ。

 嫉妬だ。

「アホくさっ」
 葵のツッコミも二人には届かない。
 健太郎というのは松井の名前であり、美奈子という女性は松井が逃げられたと言っていた結婚相手だ。
 当然、美奈子も化け狐であり、外見は若くもなく老けてもない。年齢だけで言えばそれほど不自然なことはない。
 化け狐としての力関係で言えば、美奈子は松井よりも数段勝っているため、松井には過ぎた嫁と言えるだろう。
 葵は、二人が落ち着くまでは見守ることにした。

「美奈子さん……急に居(え)なくなったのはどうしてらの?」
「式に出られないお爺様とお婆様のところへ最後のご挨拶に行くと言っていたでしょう?」
「宝石は……」
「あのような高価なものは必要ないと言っていたのに、幾つも幾つも買ってしまうから、すべてお義母さまにお渡ししました」
「それじゃ……」
「それより健太郎さん! あの女は何!?」
 びしりと指された葵は苦笑いをする以外に何も思いつかなかった。
 実際は「子供を産んでくれ言われたで」と言ってみようかと考えたのだが、二人の剣幕を見る限り冗談では済まない雰囲気だったので止めておいたのだ。
「なんれもない! なんれもないんら!」
 美奈子は松井の制服の襟を掴み、前後に激しく揺さぶる。
 松井の首はいまにもぽろと落ちるのではないかと思うほど前後に揺れた。
「きぃぃぃぃーーー!!! 浮気者ーー!!」
 美奈子は松井の頬を抓っている。“狐に抓まれた”わけだ。
「貴女は何を他人事の様に! この泥棒猫!」
「あのヒトはなんれもないんら!」
「健太郎さんはあの女の味方をするのね!」
「違うんら!」

「はあぁ…… ウチ、何しに来たんやろか?」
 その自問に答える者はいない。

 二人の様子を見る限り、仲良くやっていけるだろう。どうぞお幸せに、と葵は思った。そして二人に背を向けて歩き出す。


 青いはずの空から、ぱらぱらと小粒の雨が降り出した。
 上空に雨雲がない状態で降る雨も「狐の嫁入り」と呼ぶのだそうだ。

「もうええわ! 帰らせてもらうわ!」

 オアトガヨロシイヨウデ。

               ― 嫁取物語 了 ―