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この手にぬくもりを

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この手にぬくもりを




 判決が下された。
 長い裁判は終わったのだ。
 傍聴席に座っていた周囲の人々が、だんだんと減っていく。
 安心しきった顔で出て行く人、悲痛な面持ちで立ち上がる人、最前列の席に寄り添うように固まったままの人々。こんな風景だったのかと、喜久子はふと思った。
 周りのことは、あまり見ないようにしていた。自分自身も興味や同情の目を向けられるのが嫌いだったし、そもそも裁判中は、周りを見ている余裕がなかった。
 いつも、一時も見逃すまいと、ただ一点を見つめてきた。
 傍聴席右手下の被告席。その後列一番手前。
 もう、誰もいない。この場に来ることもない。
 急に目の前を塞がれてしまったような圧迫感に、喜久子は呆然とした。
 覚悟はしていたはずなのに、これからどうしたら良いのか分からない。一体「どうなった」のかは、敢えて考えないようにしていた。考えられなかった。
 記者につかまる覚悟をして出口に向かう。幸いにも、騒然とした人々の中をすり抜ける間、誰にも呼び止められることはなかった。
 記者やカメラが群がっているのを視界の隅にとどめながら、喜久子は人ごとのようにすり抜けた。
 このまま、何事もなく法廷を後に出来るかと安心しかけた時、その人物とばったり会ってしまった。
 判決を聞いた時から、頭がぼんやりとしていた。知り合いに会った、その認識だけで思考が止まってしまう。さて、今日のような日には一体、なんと挨拶をすれば良いのだろうか。
 幸い、相手の方がその恰幅の良い体を縮こまらせながら、切り出してくる。
「この度は誠に……なんと申し上げたらよいか」
 喜久子は黙って頭を下げた。そして「おかげさまで」だろうか、「恐れ入ります」だろうか、とにかく何の気なしに切り返してすれ違う。
「……!」
 すれ違い様に、思考が繋がった。
「奥さんっ」
 男が振り返って叫ぶのと、喜久子がその正体に気づいて青ざめるのは、ほぼ同時だった。喜久子は彼の声から逃げるように、足を速めた。後ろから、重い足音が近づいてくる。
 田中隆吉。裁判で、検察側の証人として出廷し、様々なことを暴露して物議を醸し出した男である。一部では、戦犯になりたくないために検察側と取引をしたとか、買収されたなどと噂されていた。本当のところは分からない。それは喜久子にとってはどうでもいいことだった。
 この男は証言台で、板垣を名指しで悪人だと言ってのけたのだ。今の喜久子には、そのことしか意味をなさない。かつては心服していたと語る、腰の低い田中に、板垣は騙されていたのか、裏切られたのか。とにかく、今、一番会いたくない人物だった。
 田中は喜久子に追いすがり、叫んだ。
「僕が殺したとでも言うんですか!」
 喜久子は自分の耳を疑った。
 今さら、この男は何を言うのだろうか。
 平常心を失った田中が、袖に縋るように歩み寄ってくる。
「やめてください」
 静かに、しかしきっぱりと、喜久子は田中を振り払った。
 辺りは騒然としたままだったが、自分たちがその中心になったのではないことを確認し、喜久子は目の前の男を睨み付けた。
「奥さん、僕はなにも……」
 うなだれる田中を目の前に、言いようもない憤りが沸いてくる。
 誰のせいだとも思わない。そんなことで済ませられる事の範囲を超えている。
 あの日から、世界はひっくり返ったのだから。
「自惚れないで」
 自分でも驚くほど、よく透る声が出た。
「あなたなんかに、殺されてたまるものですか」
 喜久子の言葉に打ちのめされるように、田中は崩れ落ちた。
 喜久子は、彼にかまわずその場を去った。一刻も早く、そこから離れたかった。
 彼のいる場所から、自分が恐ろしい言葉を吐いたその場所から。
 その後田中は、悲鳴のような声をあげて、泣いた。その耳障りな音が、外へ出ても消えなかった。
 認めてはいけないと思った。
 板垣が今までの人生で行ってきたこと。そのことで裁かれたのだと、認めたら駄目だ。
 信じると約束したのだ。あの時、何かがおかしいと思いつつも、どんなことがあっても。
 誰が嘘偽りなく証言しようとも、それが判決の決定的要因であったとしても。皆がそれを受け入れたとしても、喜久子だけは否定し続けなければならない。
 ……例えそれが真実であっても。

作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら