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この手にぬくもりを

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 喜久子は、きっぱりとそう言いきった。本当のところは、そうであって欲しい、と思っているだけなのだが。
「遠く離れた戦場にいるからこそ、私も心配するし、向こうもこっちを心配してくれている」
 これが正しい夫婦のあり方よ、と主張する喜久子だったが、心の中で「……であって欲しい」とこっそり付け加えた。言い切ってしまってから、恥ずかしくなってしまう。香代子は呆れたに違いない。喜久子はそっと、彼女の方を見やる。
 香代子は、少し目を伏せてから、寂しげに微笑んだ。
「あなたが羨ましい。よっぽど信頼されていないと、そうは思えないわ」
 香代子は、自分が夫にとって信頼の対象にはなっていないと思っている。むしろ、庇護される対象だ。香代子自身は夫を慕い、信頼しているけれども、それを同じ分だけ返す自信はない。
「喜久子さんならそれでもいいかもしれない。でも、私はこの通り身体が弱いし、すぐ病気になって寝込んで心配をかけてばかりだから、こういうときには余計に気を遣わせていると思うもの」
 実際にはそんな度胸はないけど、と香代子は笑った。
「そんな……だからって自分がいなくなった方がいいなんて考えるんですか?」
 信じられない、と喜久子は頭を振った。目の前の香代子に、というよりは、心の奥にずっと燻っていた、あの「死の餞別」事件への疑念に向けて、喜久子は必死に言葉を探す。
「戦場で必死に戦ってる人の心を、自分が思ってるって事で……自分の存在で少しは慰めてあげられるとか、そう思えませんか? 帰る場所があって、待っている人がいて、労りの言葉で、男の人の心を和ませてあげられる、そういう力があるって、思わなかったのかしら。それに気がつかないで、死ぬことが一番だと思いこんで死んでしまうなんて。それなのに、新聞や雑誌は美しい夫婦愛だ、武人の妻の鑑だって褒め称える……私、分からない。分からなくなった」
 相手の人はどう思ったのだろうか。妻に死なれたりしたら悲しいだけではないのだろうか。
 そこまで言ってから、喜久子は肩を小さく上下させ、息をついた。
 しばらく、誰も何も言わなかった。

「あなたは幸せな人だわ」
 沈黙を破って、香代子が口を開いた。
 言葉の意味が理解し難く、喜久子は眉をひそめる。
「私は、全然幸せなんかじゃ」
 喜久子としては当然の答えだった。事変が始まって、もう何ヶ月も夫とは会えていないし、いや、そうでなくても自分が幸せな人間には思えなかった。
「やっぱり私、あなたが羨ましいわ……」
 香代子が再びそう言ったので、喜久子はますます首を傾げることとなった。
 喜久子はどちらかというと、香代子の方が羨ましい、と思う。自分とは比べ物にならないくらい器量良しだし、夫も、板垣よりも随分、察しが良くて気が利きそうだ。
 それに、病気でもして寝込めば普段より優しくしてくれたりするかもしれない、と、身体が弱いのを羨ましく思ったこともあるのだ。もっとも、二年前の百日咳の感染時に懲りて、病気になどなるものではないと実感したのだが。
 彼女は喜久子が丈夫で健康なところが羨ましいのだろう、と喜久子は結論づけた。ふと、「丈夫で健康」は自分にとってはいわくつきの禁句だった事を思い出す。
「そんな、羨まれるような人間じゃないんです」
 喜久子は少し笑って、しんみりとしてしまった空気を振り払おうと、お茶でも煎れますね、と腰を上げた。

 茶の用意をする喜久子の頭に、さっきの疑念がまたよぎった。そう、自分がここにとどまっていたいのはこれのせいなのだ。何もかも終わって、まず帰って来るのはここの筈だ。一人でこの疑念を抱えているのは不安だった。とにかく、会いたかった。会って、聞いてみたい。この事件のことを、どう思うか。
 そして、こう答えて欲しいのだ。死なれたら辛いだけだ、遠く離れていても、自分を思ってくれることが支えになるのだから、と。そう、自分の考えを正しいと言って欲しい。同じ考えだと、はっきり示して欲しい。喜久子がはっきりそれを言わなくても、察して欲しい。
 早く、この事変など、済んでしまえばいい。

「いつまで続くんでしょう」
 お茶を煎れて一息ついたところで、喜久子はそうこぼすと、ため息をついた。
「もうすぐでしょう。あの新聞、和平の会談の記事なんでしょう?」
 香代子が壁の写真入り新聞記事を示す。喜久子は頷いて、その写真を見た。
 そう、この会談が無事済めば、きっと終わりなのだ。
 事変の事はよく分からなかったが、そう信じていた。

 事変は、関東軍の圧勝だった。国民には、不安などほとんどなかった。
 この事変に端を発した形で、この後日本が長い戦争の道を進んでいくことになろうとは、この時、喜久子たちは考えもしていなかった。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら