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この手にぬくもりを

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 昭和六年も暮れようという頃、世間を騒がせる事件があった。
 それは、喜久子のみならず、軍人の妻たちに、衝撃を与えた出来事だった。
 自分はどうあるべきか、どうありたいか。
 喜久子が板垣の妻としてのあり方を、自分なりに決めたのも、この事件がきっかけだった。

 九月に勃発した満州事変は、満州全域に拡大。事変前、満州に置かれた関東軍の編成は平時体勢だったが、戦線が拡大するにつれ戦時編成となり、輜重兵団・衛生兵団が必要になった。そこで、日本本土内より満州に出征する部隊が相次いだ。
 大阪の歩兵第三七連隊所属の中尉・井上清一の隊も、出征することが決まった。出発を明日に控えた彼が、連隊から妻の待つ自宅へ帰ると、家の中はシンと静まり返っている。不審に思い、家に駆け上がると、寝室には正装をした妻が包丁で喉を突いて倒れていた。辺りは血のにおいが充満しており、妻の傍らには遺書が置いてあった。彼宛の遺書には「死んであなたをお護り致します」というようなことが書かれていたという。
 この話は、出征する夫の後顧の憂いを絶つために死ぬ、という美談として軍当局に気に入られ、瞬く間に宣伝された。

 この話が喜久子の耳に届いたのは、昭和七年が明けた後だった。
 今年の正月は、酒を飲んで歌う来客もなく、子供達といろはかるたを取り、正月気分を味わうにとどまった。夫がいればいたで、来客のもてなしに追われて大変な目に遭うのだったが、淋しい正月は更に身に堪えた。
 遊び疲れた子供達が寝てしまうと、恐ろしいほどに静かな元旦の夜になった。
 事変勃発から三ヶ月あまり、板垣からの便りも途絶えがちだった。軍事機密上、新聞にも○○部隊などの伏せ字でしか情報は載らず、それをいろいろと推測することでしか夫の居場所は分からない。
 こう長くなると、内地に帰ろうかとも思うようになってしまう。そんな時、「死の餞別」の記事を読んだ。
 ショックで言葉も出なかった。自分の価値観を根底からひっくり返された気がした。もともと、軍人の妻としての価値観など、確固たるものを持っていたわけではなかったが、「違う」と強く思う対象を得て、喜久子の中で固まるようになった。

 その後も、新聞記事を見る限り、戦闘が収まるような気配はなく、数週間が過ぎた。
 官舎に帰ると、居間の壁に今朝の新聞が貼り付けられていた。それは事変勃発後、板垣の具体的な動向が初めて分かった記事だった。彼が和睦交渉の使者として、敵の将軍と会談した旨を写真入りの記事で報じたものである。長く留守のままの板垣の写真に、朝、家の中は大騒ぎで、喜久子と子供達はしばらく飽きもしないで眺めていたのだった。それを誰かが貼り付けたらしい。
 喜久子は、敵方の将軍と並んで座っている写真の板垣をもう一度見て、ため息をついた。
「もっとなんとかならなかったのかしら……」
 確かに見慣れた夫の顔だが、撮られたタイミングが悪かったのか、見事に両目が閉じてしまっている。
「写真が載るだけ羨ましいですよ」
 喜久子の帰りを待っていた、客人の香代子が、背後から声をかける。
 香代子は、事変の勃発地、奉天から内地へ引き上げる途中で体を壊し、旅順で喜久子が世話をしていた。初めての海外生活の北京時代に何度か会ったこともあり、顔なじみである。
 夫同士は同期生の間柄だったが、香代子は喜久子より年長で、はっきりとした二重の瞳に、色白の顔、ほっそりとした儚げな美人だった。実際、体が弱く病気がちならしく、お世辞にも健康的とはいえなかった。
 本当は内地へ送り出さなくてはいけないのだが、一人で船旅に出すのは不安で、しばらく官舎に滞在して貰っていた。
「ごめんなさい、長々とお世話になってしまって」
 香代子は深々と頭を下げた。
「いえ、私は構いませんよ。でも……あまり遅くなると、ご主人も心配をされるでしょう」
「喜久子さんはずっと残っていらっしゃるつもりなのですか?」
 心配する喜久子に、香代子は逆に尋ね返した。
「ええ。帰れとは……言われていませんから……まあ、残っていろとも言われませんけど」
 喜久子は、壁の新聞の写真を見やる。夫が前線で危険にさらされながら戦っているこの地から、遠ざかるのは本意ではなかった。
 今でさえ遠く離れていて、消息もおいそれとは分からない状況なのだから、せめて同じ大陸の上、同じ空の下にいたい、と思う。さすがに香代子の前で口に出すのははばかられたので、黙っていた。
「信頼していらっしゃるんですね」
 香代子が感心したように言うので、喜久子は慌てて否定した。
「違いますよ。本当に何も言ってくれないだけなんです」
 板垣とは、ここで「留守を頼む」といわれて見送ったきりだった。それも事変の起こる前の話だ。その後の手紙にも同じ事は書いてあったが、完全に戦争状態になってしまった今となっては、それを意地になって守るのが最上とは限らなかった。
 しかしそれでも、喜久子は、ここで待っていたかった。見送ったこの場所で、夫の帰りを待っていたかった。
「やっぱり、私が変わってるのかしら」
 そう言って喜久子は笑った。
 わざわざ戦争の起こっている土地にとどまっていたいと思うだろうか。内地へ帰った妻達の顔を思い出して、そう考えた。
 香代子が返事に困っていると、喜久子は続けた。
「……分からないんです」
 首をかしげる香代子に、喜久子は、最近話題の井上中尉夫人の話、と告げた。香代子は黙って頷く。
 出征する夫の後顧の憂いを絶つために、死ぬことで戦場にいる夫を護ることが出来るように、という覚悟の死。
 もしくは、夫が死ぬときに迷いや心残りがないように自分が先に死んでおく、という決意。
 死ぬと決まったわけでもないのに、何という悲観的な考えだろう。
 そして、よほど愛されている自信がない限りこんな行動は出来るものではない。夫が戦場で後顧を憂う確信など、持てるのだろうか。死ぬときに、自分を思って迷ったり、心残りを悔いたりすると、どうして分かる? それが分からないと、こんな真似は出来ない、と思う。
 それ以前に、自分で死ぬ、などということが、喜久子には出来そうにない。誰のためとか、そういったことが問題なのではなく。
「どうしてかしら。井上中尉は気の毒なだけでしょう。なぜあの人が、軍人の妻の鑑なの? 分からない」
 喜久子は首を振ってうなだれた。
「私は、なんとなく分かる気がするわ」
 香代子は、静かな声で答えた。
 その、遙か遠くを見るような目に、喜久子は背筋が寒くなった。
 分かるなんて、言って欲しくない。
 それは、死んでもいいと思うことだ。
 喜久子の考えは、少し変わっているかもしれない。しかし、自分の考えが正しいという自信があった。
 それを、生きて、一生のうちで証明したいと思っている。
「出征している間、余計な心配をかけなくてすむでしょう? 私なんかが死んであの人を護れるとは考えてないけれど」
 後半は、先程喜久子が考えたことと同じなのに、香代子が言うと妙に悲観的に感じられる。
「心配……って、戦地から心配してくれるに決まっているでしょう」
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら