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父の肖像

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 祖母は婿養子である祖父と離婚すると、子供たちを残して、親戚を頼って群馬に行った。離れたところでずっと暮らしていたが、死ぬ間際になって、「実家で死にたい」と実家に戻ってきた。小学生の五年生くらいのとき、突然、見知らぬ人(祖母)が住み着いたのでびっくりしたことだけを覚えている。顔をまじまじと見たことがない。一度だけ、顔を合わせたことがある。にこりともしないで、何か言いたそうに、自分の顔を見た。
「わがままな女だった」と父が繰り返した。
そこに父の言いたいことがたくさんあったような気がする。父は貧しい家の家計を助けるために、学校に行かされず働かされた。母親らしいことは何もしてくれなかったのに、死ぬ間際になって、家に戻り、世話をさせる。そんな母親に対して、思慕の念と過酷な人生に追いやったという感情が複雑に入り混じっていたのではないか。

 母はよく喋った。母が喋るから、父は寡黙でいられたかもしれない。まるでコインの表と裏の関係のような関係だった。体格も口数も表情も何もかも正反対だったが、とても仲が良く、お互いに足りないところを補うような関係であった。
 中学二年生のとき、父は定年退職した。夏が来る前のことである。
 母は父のために綺麗な白いワイシャツとグレーの背広を用意した。それが精一杯の正装で、最後の日はせめて正装させて送り出したいという母の思いだったに違いない。
 お昼過ぎに父は帰ってきた。家には自分と母がいた。父は着替えしながら、「退職金をくれなかった」とぼやいた。
父は平静を装っていたが、何とも情けない声だった。泣き出したいような無念さが宿っているのが、子供心にも分かった。
父は沈黙した。沈黙の中に何かぴんと張り詰めたようなものを感じた。
母が父と一緒になって愚痴でも言うのかと思ったが、何も言わず口を堅く閉じたままでいた。しばらくして、父の脱いだ服を畳んでいた母が、「三十年も働かしてもらったんだから、それだけでも十分ありがたかった」と静かに言った。
その一言で張り詰めたものが解けた。父は黙って聞いていた。
「長い間、ご苦労様でした」と母が朗らかな声で付け加えると、父は、「うん」と小声で応えた。
もし、母が父の会社の悪口やそして退職金が出なかったことに不平を洩らしたら、きっと父は居たたまれない気持ちになっただろう。それが反対に、「ありがたかった」と言ってくれたので、きっとほっとしただろう。「うん」という声にその安堵した気持ちが溢れていた。

退職した父は自宅の一部を改造して、洋食器を研磨する場を作り、仕事を続けた。まだ義務教育中であった自分と弟がいたので働く必要があったのである。
退職後の方がむしろ長時間働いた。夜も、昼も、日曜日も、祝日もとにかく働いた。一日のうち何度が休憩したが、そんなときは必ずといっていいほど、作業場から出て、遠くの景色を眺めながら、美味しそうにタバコを吸った。若葉というフィルターのないタバコである。そのタバコと洋食器を加工する際に出る粉塵が原因で後年の肺ガンになり死に至った。まだ六十一歳で、死ぬには早すぎた。

父に対して異質のものを感じ、さらに字も満足に読めないのではないかという疑惑を抱きながらも、軽蔑の念を持たなかったのは、母の影響が大きかった。母は一度も父を蔑むような言葉を、子供の前で発したこともなかったのである。
父と向きあった場面が一度だけである。大学への進学を決めるときのことである。
「大学へ行きたい」と母に相談すると、
「お父さんに相談しなければ決められない」と応えた。
そう言われて、初めて父に大きな決定権があるということを知った。
その夜、父の前に座らされた。
父も、自分も、何も言わず、ただ母が喋るのを聞いていた。不思議なくらいに緊張した。
「だめだ」と言われたらどうしょうか、そんなことばかりを考えていたが、父も何も喋らない。
「この子は、不器用だから勉強するしかない」という母親の一言で、大学の進学を許してもらった。

 浪人していた夏、車にはねられた。運転手の前方不注意である。
 入院のとき、加害者である若い男が見舞いにきた。たまたま、父も来ていた。加害者が謝罪の意を示すと、父はすさまじい勢いで怒った。まるで狂ったかのように怒りをあらわにして加害者をなじった。小さくなって、ひたすら陳謝を繰り返す加害者が妙にかわいそうになり、帰った後、父に、「何で馬鹿みたいに怒るんだ」と言った。
 すると、父は、「お前のために来てやったのに、何を言っている!」と烈火のごとく怒って帰った。おそらく、加害者に同情するような言い方をする息子に呆れ、怒りを抑えきれなかったのであろう。
 それ以来、父は見舞に来なかった。小さな出来事であるが、あらためて、自分と父の隔たりを思い知らされた。

 大学三年の夏に帰省した際、父が隣町の総合病院に入院したことを知らされた。寝耳に水だった。後で知ったのだが、入院したときには、既に肺ガンが体中に転移してどうしょうもない状態だった。詳しい状況を聞かされぬまま、夏休みの間、付き添いをやらされた。
 最初、父は六人部屋に入った。
母はずっと看護のために父に付き添っていた。ほとんど家に帰らなかったが、それでも、家事や畑仕事をするために帰ることがあった。そんなときには、母に代わって、一日、付き添った。父との会話がなかったが、それでも食事を運んだり、背中をさすったり、トイレに連れてやったりした。何もしないときは、横たわる父をそばで見ているだけ。実に退屈だった。時折、窓の外に目にものの、夏の青い空の下で広がる水田が見えるだけ。いつの頃か、「時間が無為に消えていく」という苛立ちのようなものが沸き起こった。無論、そんな気持ちを表にせず付き添ったつもりだが、父は感づいたかもしれない。その証拠にねぎらうような言葉を一度もかけてくれたことがなかった。
ベッドに横わたる父が、「背中が痛い、痛い」と苦しみを訴えると、母は必死に背中をさすってやる。それがいかほどの効果がるのか知らないが、ともかくも黙った。
「痛い」と訴える父が、どこか甘えているように思えたことが何度もあった。きっとガンがいかなる病気で、その痛みがどれだけのものかを想像できなかったせいだろう。いや、それだけではない。衰えていく父を目の当たりにしていたのに死を想像することもなかった。父との冷ややかな関係も影響したのだろうが、何よりも二十を過ぎたばかりの若者にとって、死があまりにも遠すぎて想像することができなったのである。

母は一生懸命看護した。顔を曇らせることもなく、いつも微笑みながら父に接した。母も死を想像できなかっただろうか? そんなことはないだろう。いかなる結果になるか、医師から事前に告げられたはずだ。きっと胸は張り裂けんばかりだったに違いない。ひょっとしたら、仲の良い実の姉(叔母)にだけ相談し泣き言を言ったかもしれない。父が入院すると、すぐに叔母は東京から見舞いに駆け付けた。長らく我が家に留まり、母の家事や畑仕事を手伝った。
ある日、病院で父の衣類を洗濯する母に、「いったい、何の病気?」とそっと聞いた。
母は深いため息をついて、「ガンだよ」と答えた。
作品名:父の肖像 作家名:楡井英夫