小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

三分鋳造懐中時計

INDEX|2ページ/4ページ|

次のページ前のページ
 

 侍女たちの交わしあう小鳥が歌うようなささめき声に包まれながら、アリーセは時計の針ばかりを気にしていた。庭師たちは姫が庭園を散歩し始める正午までには皆詰め所に引き上げてしまうと聞いた。――そうだとしたら、あと三分半しかないじゃない!
 白い噴水が鎮座する宮殿前の平面幾何学式な庭園を抜けた後、徐々に草木はイギリス式の自然を生かした風景式庭園へと姿を変えてゆく。その中でもこの王国の象徴とされる薔薇がふんだんに植えられた一角が、『春の園』と呼ばれる場所だ。毎年薔薇の季節になると、国王夫妻とアリーセ、そして王に従う高官や貴族たちがここに集って盛大なティーパーティをするのが習わしとなっているため、この区画は他のどの場所よりも入念な手入れが常に施されているのだ。
 アリーセは大きなフリルのボンネットを被っているために周囲があまりよく見えない。怪訝そうな様子の侍女に呼び止められて初めて、王女はその顔をふっと上げた。
「王女さま、此方が『春の園』でございます。まだ庭師が手入れを施している途中でございますが、構いませんでしょうか?」
――『庭師』、と聞いて姫君の肩がびくりと震える。
 侍女が指す方に体を向けると、少年が乗っているのであろう木製の脚立が視界に入り、遠目に見つめたあの銀髪の少年の横顔が一瞬アリーセの頭を過ぎる。
「ア、アリーセ王女さま……!?」
 頭上から響くのは少年のそれであろう、まだ声変わりの来ていない幼く玲瓏なテノールボイス。それを聞いて誰にも悟られぬようにこっそり頬を赤らめながら、アリーセはゆっくりとボンネット越しに頭上を見上げた。
 だが、美しい彼の容貌をようやくまともに見られるのかと思ったその瞬間、脚立に乗った少年の姿はふいに大きくぐらりと揺らいだ。
 その刻限、彼女の時計で丁度11時57分。

「どうしよう、このままじゃ間に合わない……」
 腰に提げた懐中時計に何度も目を走らせながら、フィリップは長めの銀髪を揺らして焦ったように何度も口走っていた。
 小径まで生い茂った茨の処理に思ったより時間がかかり、薔薇の手入れをする時間が取れない。薔薇の舞い散る『春の園』をどのように仕上げたいのかという構想は彼なりに頭の中に組み上がっていたのだが、如何せんこのままでは薔薇の剪定を終えられないまま正午を迎えてしまう。
 不完全な庭をそのまま放置して他人に見せるなどというのは庭師失格もいいところだが、だからといって時間を厳守しないのはプロの仕事人としてあってはならないことだ。迫り来る時間の中で、フィリップは苦渋の決断を迫られていた。
「(取り敢えず入り口の薔薇を重点的に切ろう……後のことはそれから考えればいい)」
 時計をもう一度見ると針は11時45分を指している。15分あれば『春の園』の入り口くらいは綺麗に仕上がるだろう……そんな計算を頭の中で巡らせながら、フィリップは脚立を抱えて庭の玄関口まで移動した。
 美しい石畳にしっかりと木の脚立を置き、そこに器用に足をかけて大きな刈り込み鋏を掲げる。その時一段高い視点で一瞬宮殿の方を見やったフィリップは、普段アリーセ王女が身支度を整えているはずの部屋に彼女がいないことに気がついた。
「(王女さま……何かあったんだろうか)」
 新入りの庭師でしかないフィリップと雲の上の存在であるアリーセ王女の間には文字通り天と地ほどの身分の差があるため、そうそうお目通りなど叶うはずもない。だが、そうは言ってもふたりは一応ながら同じ王宮の中で暮らしている身、フィリップは本当に遠巻きにだが、何度か王女の姿を目にしたことがあった。
 北欧のサファイアと称されるに相応しいその美しさと、話したことなどなくても外面から滲み出る愛情に満ち溢れたアリーセの優しさは、一目でフィリップの心をわし掴みにした。近づいて共に居たいなどという不遜な想いを抱いたことは決してなかったが、それでも陶器のように透き通る王女の肌のあまりに気高い白が、彼の深紅の瞳に焼き付いて離れなかった。
 土と光を求めてどこまでも生い茂る、わがままでプライドが高い薔薇たちに鋏を入れていくというのは容易な作業ではない。フィリップは宥め賺すような調子で薔薇たちに語りかけながら、手際よく余分に茂る葉や蔓を落としていった。
「良い子だね……おとなしくしていればもっと綺麗にしてあげるから」
 昨日の雨で散ってしまうかと思われた薔薇たちはまだほとんど満開のまま残っており、いっぱいの薔薇に包まれた『春の園』の美しさはまさに旧約聖書のエデンの園のようであった。その中でも一際目立って咲き誇る『フロイリッヒ』の一輪の白薔薇にそっと触れながら、フィリップはかの王女の姿を頭に描いていた。柔らかなブロンドはふわふわとしたウェーブを描いて腰まで垂れ、時々気分転換のためかその髪型を変えるのがフィリップは好きだった。そして彼女の笑みはラファエロの聖母のように甘美で、聖なる愛をいつでも湛えている……。

「王女さま、此方が『春の園』でございます。まだ庭師が手入れを施している途中でございますが、構いませんでしょうか?」
 するとその時突然真下から侍女と思しき女性の声が聞こえ、はっと我に返ったフィリップはびっくりすると同時に眼下を見やった。
 夢想に耽っていたせいで足音にさえ気付かなかったらしい。深い緑色のエプロンドレスを着た数人の侍女たちに囲まれて、自分が足をかけている脚立のすぐ下に、フリルに彩られた一輪の白薔薇のような豪奢な日傘が咲いていた。そう、見間違えることなどあろうはずもない、アリーセ王女そのひとの日傘である。
「ア、アリーセ王女さま……!?」
 腰元の懐中時計に目をやると、針はまだ十二時を指してはいない……王女がここを訪れるにはまだかなり早い時間だというのに、何故今この場所に?
 先程も述べたとおりだが、フィリップと王女の間にはあまりにも大きな身分の違いがある。国の頂点におわす王族であるアリーセのことを畏れ多くも上から見下ろしてしまっている……そんな自分がいることに気付いた瞬間、フィリップの身はまるで背を氷で撫でられたかのように竦み上がった。
 すると眼下の日傘が揺れ、アリーセの頭を包み込む水色のボンネットから美しいブロンドの前髪が覗く。ああ、王女が自分のことを見上げようとしているのだ……とフィリップが気付いた時には、既に畏れと恐怖に固まってしまったフィリップの体は、完全に脚立からバランスを崩していた。
「お、王女さま、お避け下さい……!」
 手にしている刈り込み鋏が降りかかって王女に危害が及んでしまえば一大事どころの騒ぎではない。アリーセと侍女たちを傷つけないよう、刈り込み鋏の刃の部分をとっさの判断で抱きかかえると、フィリップはそのまま脚立から転げ落ちてその身を石畳に叩きつけられた。

「ああ、なんてこと……!」
作品名:三分鋳造懐中時計 作家名:三芭 小夜