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三分鋳造懐中時計

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暖かく吹き抜ける春風は生い茂る木々をしとやかに揺さぶり、永かった北欧の冬のまどろみから目覚めた動物たちは優しい日差しの中で森の中を元気よく行き交っている。
 そしてかの平和な王国の首都に聳え立つ、フロイリッヒの白薔薇と称される華麗にして絢爛な王宮の中にも、くるくると渦巻くような春のうららかな香気がいっぱいに舞い踊っていた。
 王宮には国民から絶大な信頼を寄せられて君臨する偉大なる王と美しく慈悲に溢れた王妃、そしてそんな夫妻の愛娘であるアリーセ王女の三人が幸せに暮らしており、中でもアリーセ王女はまだ13歳と幼いながらも、類い稀なる可憐な美貌と深い教養を兼ね備えた才女としてその名を馳せており、これからの王国の未来を嘱望された存在として、国民と両親の愛情を一身に受けて育っていた。
 そしてこの王宮には王族以外にも沢山の侍従たちが住み込みで暮らしており、彼らは王に直接奉仕できる喜びを肌で感じながら日々実直に働いている。王を補佐する大臣や高官に始まり、その高官たちを補佐する執事、家事雑用を担うメイドや従者たち、そして宮殿の周りに広がる壮麗な庭園を管理する庭師たちに至るまで、それぞれが皆それぞれの誇りを持って仕事に臨んでいた。王族が国民全てに注ぐ大いなる慈愛と、民たちの抱く自負と王への畏敬によって、フロイリッヒの白薔薇は今日も凛と咲き続けている。

「正午でに『春の園』に咲いとるバラの剪定を必ず終わらせてこい。良いな?」
「は、はいっ」
 宮殿から少し離れた森の一角に建つ、庭師たちの詰め所であるこぢんまりとした小屋で、新入りの線の細い少年は師匠である老いさらばえた熟練の庭師に何度も頭を下げていた。少年は部屋の中に雑然と置かれた道具類の中から、頑丈そうな木製の脚立と長年使い込まれた大きい刈り込み鋏を引っ張り出して、着々と準備を整えながら師匠の命令に耳を傾けていた。長年の肉体労働ですっかり腰が曲がってしまい、もう仕事が出来なくなってしまった老庭師は、埃を被ったソファに腰掛けながら少年の様子を眺めている。
 年齢は12歳、銀色に波立つプラチナブロンドと端整な顔立ち、そして血の色を透かして染め上げた真っ赤な瞳を持ったこの純朴そうな少年の名はフィリップといった。幼くして両親に捨てられて里親のもとで育ったフィリップは、里親の負担を減らし家計を助けるために、自ら志願してこの歳で王宮に奉公に出てきていた。
 宮廷で働く者に支給される凝ったデザインの制服に身を包み、細かい枝を剪定するための小さな鋏と薄汚れたひどく古めかしいデザインの銀時計を腰に提げ、重い脚立と刈り込み鋏を両肩に抱えたフィリップの容貌はまだ健気なあどけなさを残しており、一人前というにはあまりに危なっかしい。
「昼には王女さまと侍女の方々が春の園にお見えになるから、それまでには完璧な庭に仕上げるんだぞ。時計はちゃんと合ってるな?」
「えぇ、昨日ネジを巻いておきましたので」
 フィリップが腰に提げている古びた懐中時計はかなりの年代物で、表面を彩る銀細工にはところどころに錆が浮いてしまっている。この時計は昔彼が両親に捨てられて街に放り出され、ぼろぼろの着の身着のままで物乞いをしていた際、馬車道の傍らに落ちていたのを拾ったもので、そのとき以来彼はどんなときも肌身離さずこの時計を身につけてきた。乞食にならねば生きていけないほどの苦難の時を共に過ごした、この古めかしい懐中時計を、彼は自分の分身のように大切に扱ってきた。
「それでは師匠、行って参ります」
 昨日の間ずっと降り続いていた雨はすっかり上がり、空はルドンが描いた神話の光景にも似た鮮やかなブルーに塗り込められている。穏やかな日差しと匂い立つ風がさっと森の木立の間を通り抜け、フィリップは大きく深呼吸をした。
 庭仕事をするには絶好の日和だ。春の園いっぱいに巡らされた高貴でわがままな薔薇たちは、いったいどれ位咲き揃っただろうか。

「おいで、ディアーナ」
 鈴を鳴らしているのかと聴き紛うような可憐な声に名を呼ばれ、まだ生まれたばかりの黒い仔猫はにゃあと一声返事をしてから主人のもとへ駆け寄った。深紅の絨毯の上を転がるようにしてやってきて、甘えるように擦り寄ってくるディアーナを抱きかかえて立ち上がり、窓の向こうに広がる庭園の遥か向こうに目をやっているのは、この宮殿の主の一人であるアリーセ王女だ。
 幼き姫君は北欧のサファイアとまで持て囃される美貌を更に引き立たせるように、淡いブルーのチュールと白いフリルが複雑に組み合わされた大輪の薔薇のようなドレスを纏って佇んでいる。
 陽の光を受けてきらきらと金糸のようにきらめく、腰まで伸びたふわふわとした巻き髪を揺らして、少女は『春の園』にある薔薇の庭の中で大きな鋏を振るう銀髪の少年をじっと見つめていた。姫君に視線を投げかけられていることにも気付かずに棘だらけの薔薇と必死に格闘する少年の、仔ウサギにも似た純粋無垢な横顔と、その少し日焼けした肌に嵌め込まれた深紅の瞳の美しさに、アリーセは思わずあっと息を呑んだ。
――私と同い年くらいかしら? ああも細い体なのに、あんなに熱心に働いて……。
 労働することによって何かを得た経験のないこの姫君は、慈愛と好奇心に満ちた熱っぽい眼差しで、少年の姿を目に焼き付けていたが、やがて我に返ったように窓から目を離すと、腕の中でじゃれようとする仔猫に声を掛けた。
「ディアーナ、ちょっとここでお留守番しててくれるかしら」
 アリーセはそう言うと遊び足りなくて寂しそうな目つきの仔猫をソファの上に置くと、部屋に据え付けられた棚の中から美しい大ぶりの懐中時計を取り出してその蓋を開いた。時計の針は11時45分を指している。
 純金製のその懐中時計は全体にロココ調の緻密な細工が施されており、蓋の裏にはティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』の模写絵が入れられている。永遠の美と愛を象徴するその時計は祖母から譲り受けたもので、アリーセはその逸品をいつも大事に大事に持ち歩いていた。
 アリーセは時計の蓋をぱちりと閉めるともう一度だけ窓の向こうの少年に視線を投げ、その後急ぎ足で自室を後にした。

 アリーセ王女が侍女たちを伴い予定よりも少し早めの散歩に出たのは、11時50分を回った頃であった。
 普段は予定を変更することなどほとんどないアリーセが焦った様子で早く宮殿を出たいと云うのに、侍女たちは少々驚かされた。だが姫君の命令に逆らうに足る理由がこれといってあるわけでもないため、侍女たちは急いで姫君の仕度を一通り整えてやり、アリーセと共に宮殿を後にしたのだった。
 フリルがふんだんにあしらわれた姫の白い日傘は、一輪の薔薇のようにゆらゆらと揺れながら小径の上を咲き誇る。アリーセのふわふわと円を描くドレスに半ば隠されたパンプスが歩みを進めているその先にあるのは、例の少年がいる『春の園』だ。
「昨日の雨のせいでお庭の薔薇も散ってしまうものかと思いましたが、みな無事に咲き続けているようですわね」
「どんなことがあっても強く美しく咲く薔薇、まるでアリーセ王女さまのようですわ」
作品名:三分鋳造懐中時計 作家名:三芭 小夜