ハザード
世の中には確かに俺より賢い人間が山ほど居るが、そいつらが普段どうやって生きているかなど、マスコミは注目しないだろう。
同じように、俺の日常だってそのまま注目されず、家族や友達、揃う人間会う人間全てが無かったことにするような話だ。
ただ、当事者である俺はそれを回避できない。
日常とは斯くも儚いもので、つまるところ日常なんてない。全てが非日常だ。故に日常、と。
そんな不毛な話はさておいて、今目の前で起こっている、例の俺の嫌な予感をじっくり中継しよう。
家の玄関を出た。集団宅地にある一軒家だ。平屋も二階建ても三階建ても見渡す限りある。四階建てや地下室持ちなんていうのはさすがに存在しないけれど。田舎だし。
周りの風景に嫌な予感はしない。いつもどおり、家と、そのあいだに、この辺の子供用に作られた公園が鎮座しているだけだ。
先に家を飛び出して、公園で遊ぶ弟の面倒を見るのが俺の役目だ。
嫌な予感がした。発生源は、視線の先の弟と、そいつが触ろうとしている物体。
タイミングの悪いことに、由起姉も由伊姉も仕事で居ない。親は共働きでいつも居ないが、今に限っては、由伊姉が居ないのが一番きつい。
姉ちゃん向きの事件の予感がする。俺は武闘派なんかじゃない。由伊姉が密かに俺のことを、姉ちゃんの師匠の弟子に肩代わりさせようとしていることを知っているが、俺は武闘派にはならない。絶対にだ。なんとなく、第六感みたいな、霊感じゃないけれどちょっと特殊な力があるかな、くらいの軽い気持ちで、普通の人で居られればいい。
姉ちゃんが帰ってくるまで、あと二時間弱くらいだろう。時間を計るまでもなく、姉ちゃんの助けは請えない。アーメン。
さて、改めて確認したそんな状況で、弟の久壱が、明らかに不自然な手袋を拾おうとしていた。俺の攻撃、悪あがき。
「久壱、さわんな!」
当然、その叫びも遅かった。十歳の久壱には危機意識なんてものは、まぁ欠片くらいはありそうだけど、俺ほど卓越した予感を持っているはずもない。
左手だけ不自然に落ちている黒革の手袋を、久壱は拾い上げてまじまじと観察している。
今の季節は晩夏。革の手袋と言えばバイク。そろそろ乗りおさめだと走り回るのも分かる。だけど、それ、どう見てもライダー用じゃないぞ。多分。何より住宅地でバイクを乗り回すなんていうのも非常識だし、ご近所さんのお父さんお兄さんがバイクを買ったっていう話も聞かない。
結論、不審物及び第六感に基づく一級危険物。
俺の嫌な予感ってわりと当たるな。実感したくねぇよこんなこと。
目撃して静止の声をかけ、次の行動に移るまでに要した、思考のための時間は一刹那にも満たないだろう。まだ久壱は手袋を拾い上げただけだ。
間を置かず、こちらに手袋を届けに来ようとする久壱に駆け寄って、手袋から手を離すように取り上げた。久壱の左腕をしっかりと掴んで。久壱は右利き。偉い人のテンプレートには乗れなかったらしい。
「なんで取るんだよ」
久壱がむっとするが、蚊帳の外。
再三言うが、明らかに怪しい手袋は、しっかりと怪しかった。
つなぎ目が、ない。ゴム手袋も顔負けだぜ。
「キモ……!」
思わず叫んで、手袋を捨てる。嫌な予感がするけれどもう止まらない。ステップがありませんって公言するバスは止まるけど(あれを見間違えたのは俺だけじゃないはずだ)、物語は止まったら駄目なんだった。
手袋が手から飛び立つ。旅立ちの日に!
残念ながら旅立ったのは俺たちの方だった。さよなら、住宅街。最後に見た公園はやっぱり人が居なかった。
「いってー!」
「ってぇ……」
ぶん投げられたっていうのが一番齟齬がない。横に叩きつけられた。
ああくそ、これ、体の一部が触れてたら強制連行タイプのトリップか。
若干暗くてまだ見えないが、明らかに住宅街の路地ではないそこには、もれなく久壱という同伴者が居た。
「久壱、大丈夫か」
「いたい……」
俺は主に膝頭が痛いのだが、多分この痛さだと、
「頭ぶつけた……」
久壱の頭にクリーンヒットしたな。おめでとう久壱。さようなら久壱の脳細胞。こんにちは久壱の塩水。
こいつも歳が二桁に突入したこともあり、殊更可愛がってもいない俺は久壱の頭を無視することにした。
辺りを見回して状況整理。
暗い室内に一つだけ、右手に窓がある。青空が広がっていて、そこから差し込む光と、暗順応してきた目で久壱を確認。頭を抱えて体育座りをしている。無事なようだ。
「どこだよここ」
「兄やん知らないの?」
「知らねぇよ」
「役立たずだなぁ」
「うるせ」
泣いたヒナがもう笑ってやがる。
残念ながら窓の前にはたくさんの小道具が置かれている。窓の周辺だけじゃない。この部屋の壁際には、所狭しと物が積み上げられている。
ただの木の棒もあれば、布だってある。冒険が始まってもおかしくない。いやいや、既に冒険の渦中でしたね。
久壱を置いて立ち上がり、とりあえず近付けるところまで窓に近付いた。見えた風景に基づいて、俺は静かな声で久壱に告げた。
「……久壱、お前は来るな」
「えー、見たい、見たい!」
「お前、高所恐怖症だろ」
それでなくともお子様には少しきつい高さだ。俺でも心臓が音を大きくする。なんていったって、足元が一ミリも見えない。正直怖い。
窓からの風景を嘆いていると、久壱が背中を叩いた。来るなって言ったのに。あ、こういうのは小学生には逆効果か……。
「ちげーよ。高所恐怖症は由起姉だって。おれ平気だもん」
「あれ、そうだっけ」
少しハードボイルドを気取ったのが無駄だったようだ。まぁいい。
まだ背の低い久壱は、窓を覗き込むのさえ大変そうだったが、覗き込んだところで満足したのだろう。結果云々はどうでもいいらしい。
「下みえねーよ?」
俺に言うなよ。
「俺に言うなよ」
「兄やんもみえねーの?」
思ったままを口に出したら失笑を含まれて馬鹿にされた。一々腹立つなこいつ。今更だけど。
窓には悪いけど、地面もろとも見えなかったことにして背中を向ける。
「お前だって見えねぇだろ。つーか、マジここどこだよ。お前のせいだぞ、こんなところに飛ばされたの」
「は、俺じゃないし。兄やんだし」
向き合って真正面から文句をぶつけた。負けずに言い返す久壱。
いつもならこの言い合いは半分笑顔で成されるのだが、俺はさすがに笑顔になれない。嫌な予感はしたが、ここまで大事だとは思わなかった。
今までの嫌な予感と言えば、この先の道を行くと事故に遭うだろうというものに始まり、今日は学校に行きたくないけど行ったら何故か学校から出られなかった、夜中に目が覚めたら携帯が部屋の出入り口まで歩いていた、由起姉のイベントに連れて行かれる、由伊姉の知り合いに会わされる、そんなものだ。大抵は由伊姉が関わってくれれば解消できたのだ。
しかし、ここに頼みの綱の姉は居ない。
笑うのさえ勿体無い、忍者という肩書きを持つ姉は居ないのだ。
事故も、迷路学校も由伊姉が解決してくれた。
「俺じゃねーよ! 自立したくねー!」
おもむろに叫んだが、誰も返事をしてくれるわけもなかった。久壱だってきょとんとしている。
「なまくび」