夢幻堂
第三章 蒼い月の涙
チリン、と客が来たことを知らせるベルが鳴った。黒猫姿のシオンはぴくりと反応して扉に視線をやる。が、ベル鳴った扉からお客が入ってくる気配はない。
「なんだ? 嫌がらせか?」
乗っていたソファからすとんと身軽に降り立つと、シオンは胡乱げに扉に近づく。そのシオンの首根っこを掴んでひょいっと部屋の奥へと投げたのはこの店の主、カンナだ。
「なにすんだ! 俺を投げるなっ」
ぐわっと怒鳴ったシオンに振り返ったカンナの顔は、笑顔ではなく、その行為が冗談ではないことを物語っている。そのまましんと静まり返ってしまった部屋の中、カンナは一言だけシオンに言う。
「シオンは外に出ないで下がってて。分かった?」
いつものような軽口ではない。けん制する声を聞き取ったシオンは、珍しく文句を言わずに従った。カンナがこんな風にシオンを制するのはそうあることではない。と言うことは、自分は本当に出てはいけないのだろう。それが分からないほど、シオンは愚かかではなかったし、笑い飛ばすほど能天気でもなかった。だからただ黙って首肯する。
カチャリ、と滅多に内側からは開けないドアを開け、外を見る。
そこにはごおぉと風が唸るような音を出し、およそ見たことのないイキモノたちが小さな暖色の灯りに群がっていた。ごくたまに見かけるその光景を、カンナは無表情に見ていた。もう何度か見たことのある光景。それは決して気持ちのいいものではなくて、カンナの心にたとえようもない嫌悪感を浮かび上がらせる。
「──……どきなさい」
低く、およそ少女とは思えないほどの棘のように鋭く尖った声がイキモノたちに向けて発せられる。その響きには殺気すら感じられ、小さな灯りに群がっていたイキモノたちはごおぉと変わらず唸りながらも離れていく。
──なぜ、なぜだ、夢幻堂の店主よ
風が唸るような音の中に、聞き取りがたい幾重にも重なって不協和音となった声が届く。それはイキモノたちが発した言葉だと、カンナは言われるまでもなく知っていた。
「私の店にたどり着いた魂は、すべて私のお客だといったはず。手出しは一切許さない。……だから、今すぐ私の前から消えなさい!!」
怒号のように発したカナンの声に、びくりと怯えたのかごぉっと唸る声が弱まる。しかしそれは一瞬のことで、すぐさまイキモノたちはカンナに向かって唸り声をあげた。
──異端者を巻き込んだ店主よ
──ああ、愚かな店主よ、未だに異端をその身で飼っているのか
イキモノたちが口々に異端と口にした瞬間、カンナの身体からたとえようもない殺気が凶器としてイキモノたちに襲いかかった。それは黒く淀んだ何かの塊のようなもので、イキモノたちは突如うろたえはじめる。そしてもう何も言わずに嵐のような風を巻き起こして、そのまま逃げさっていった。
「……黙りなさい。シオンは異端なんかじゃない。あの子だって、傷付いた子供だったのよ!」
怒りを滲ませた声は、もはやイキモノたちには聞こえてはいない。けれどどろどろと燻っている怒りを、どうにかして吐き出したかった。シオンを異端者呼ばわりするイキモノたちを、傷付けてやりたいと思ってしまった心が、さっきの黒く淀んだ塊を生み出したことをカンナは理解していた。けれど実体のない彼らはすぐに逃げてしまって致命傷を負わせることはできなかったのだが。
カンナは気持ちを落ち着かせると視線を落とし、そのままイキモノたちにまとわりつかれていた小さな灯りに手を伸ばす。
「……いらっしゃい、小さな小さな魂さん。あなたに必要なのはたくさんの安らぎと眠りね」
言いながらチリンとベルを鳴らしながら夢幻堂の扉を開け、ほどよい温かさに囲まれた店の中へと入っていった。
「すごい風の音だったぞ。嵐か?」
部屋に戻ってきたカンナと小さな灯りのような魂の姿を見つけ、シオンは近寄りながら尋ねた。
「嵐じゃないけど、風が唸ってるみたい。ここにいれば聞こえないし、飛ばされないから大丈夫」
シオンは外に何があるのか知らなかった。知る必要もなかった。それはカンナだけが知っていることだ。シオンが、あの風のようなイキモノたちに取り囲まれ異端者だと喰われそうになっていたことを。だから、カンナは嘘をつく。シオンを傷つけないために。
「これ、魂か?」
「そうよ。……大分、弱っちゃってるけど……この子は人間の魂ね」
「なんか……、淋しそうに見えるな。こいつ見てると、俺が悲しくなってくる」
「……それはね、この子の魂が傷付いてるからよ。魂に悲しみが侵食している、小さな魂なの」
悲しそうにカンナはそう言うと、お客用の椅子にその小さな弱い魂を乗せると、ふわりと撫でる。何度も何度も、愛おしげにゆっくりと魂を撫でていく。
「……小さい魂だな」
「まだ子供なの。一人じゃまだ生きられない、ほんの子供だから魂も小さくて、汚れがないでしょ?」
小さく灯る魂の色をじっと見つめ、ふとカンナを見上げた。その薄紫と青みがかった緑の瞳が、ほんの少しだけ翳っていた。
「………俺も、こんな風だったのか?」
何かにすがるような声でシオンが問うのを、カンナは懐かしい思いで聞いた。こんな弱い声音でカンナに尋ねるのは、出会ったばかりのころ以来かもしれない。だからなのか、カンナはふっと微笑んで頷いた。
「あのとき、シオンもまだ子供だったわ。小さな……小さくて綺麗な魂だったのよ」
「ふぅん……あんまりって言うか、ほとんど覚えてないけどな」
この上なく弱々しい光を放ち、とても傷付いた魂だったけれど、という言葉はカンナの心の中に押し込められ、発せられることはなかった。覚えていないなら、きっとその方がいい。その方が幸せに決まっている、とカンナは今でも思う。そう思ってしまうほど、シオンの魂は傷付き、今にも消えてしまいそうだったから。
「さてと。いつまでも魂のままじゃ弱っちゃうね」
そう言うと、ふわりとソファーに乗せた魂をそっと手に取ると優しく息を吹きかけた。その吐息はふわりふわりと魂の周りを包み込み、だんだんと魂ではなく本来の形を象っていく。カンナが吹く息には、そういう力が宿っていた。
「ただ息を吹くだけなのにな。俺じゃだめだ」
すでに人の形をし始めている魂に向かってふーとシオンが息を吐く。むろん、何か起こるわけではない。その様子にカンナは思わずふふふと笑う。
「そりゃ、シオンは私じゃないもの」
そう言いながら、人間の姿になったまだ幼児としか言えない年の姿を見る。その瞳には、哀しみが宿っていた。
「……?」
ほんの幼い子どもの形をした小さな魂は、瞳をぱちりとあけきょろきょろと不思議そうに辺りを見回している。その小さな視点に合わせ、カンナは座り込むとにっこりと微笑んだ。
「目が覚めた? 小さな小さな魂さん。私はカンナよ。あなたの名前は?」
「……なまえ……わかんない……」
大きな瞳に涙を浮かべると、小さな魂の持ち主は声を上げて泣き始めた。その身体をそっと引き寄せてやると、ぎゅっとカンナを掴み泣き続ける。
「何だ、どうした?」